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菊乃の窮地 4

「あの、ここ出る方法探しませんか?このままだと、辛いです」


 と、この部屋を水槽みたいにしてしまった張本人が言うのも、何だけれども。

 青の血族や、ハイネスについての話は気になるが、この険悪な雰囲気は嫌だった。それに何より、ハイネスのあんな目を見てしまったら。

 誰にだって、触れられたく無い事はある。


「……少し待て」

「え?」


 問いかける暇を与えず、ハイネスは水の中に潜っていた。何度か金属がぶつかるような音が響き、程なくして、がこっと何かが外れるような鈍い音がした。同時に、水面が揺れ、留まっていた水が、どこかに向って流れ始める。その勢いに巻き込まれそうになる菊乃を、ハルラックが襟首を口で咥えて捕まえていてくれた。

 みるみる水かさが減っていく。

 やがて床に足がついた。流れに足をとられそうになるので、菊乃は必死にハルラックの背中にしがみ付いていた。

 水が足首の辺りまで減って、流れも緩やかになったところで漸く、何が起きたのか理解した。部屋の入り口にあった、金属製の扉が外されている。それを見た時は目を疑った。

 あんなに頑丈そうで重そうなドアを、一体どうやって外したのか。ハルラックでも、びくともしなかったのに。

 見たところ、ハイネスの方がハルラックよりも細身に見える。背丈もほんの少しハルラックの方が上だ。それほど力に差があるようには見えない。何か道具か、武器を隠し持っていたのだろうか。

 当のハイネスは涼しい顔で、倒れたドアの上に足をかけ、持っていた鉄の枷を部屋の隅に放り投げている。

「行くぞ」

「え、あの、ハイネスさん、怪我は」

「……もう治っている」


 信じられないが、本当のように聞こえる。

 つい先程まで怪我と熱で死に掛けていた人には、とても見えない。骨折していた箇所に巻いていた添え木も、いつの間にか外されていた。

 混乱する。

 この世界の人間は、怪我の治りが早いのだろうか。


 建物の外に出ると、すっかり明るくなっていた。日が高いところに上っている。昨晩とは打って変わって気温が高い。日差しも強く、肌がじりじりと焼けるようだ。

 この分なら、湿った体もすぐに乾くに違いない。

「被っていろ」

 と、ハイネスに渡されたのは、茶色い毛布だった。水を吸って重いが、これもその内に乾くはず。

「町の方角は分かるか」

『ああ』

「では行け」

 行け、とそう言ったハイネスの顔を、菊乃はまじまじと見つめた。

「ハイネスさんは?」

「俺は彼女を追う」

 彼女とは、ルーミケラウスのことだ。それ以外に考えられない。

「遠くには行っていない筈だ」

『追って、どうするんだ。彼女は既に、敵対者に侵されている。望みは無い』


 乾いた風が吹いている。舞った砂埃が、ほんの少し目に入って痛い。


「知っている。望み等、もうずっと前から途絶えていた」

 乾いた声。

 ハイネスの凍て付いたような紫の瞳の奥で、怒りと悲しみが交互に揺れる。胸の奥が、ぎゅっと掴まれた様に苦しかった。

「終わらせるのは、俺の役目だ」

 淡々と吐かれた言葉に、彼の絶望の深さを知る。終わらせる、と彼は言った。それは、彼の姉、ルーミケラウスのこと?

 敵対者と呼ばれるものの事を、菊乃はまだ完全に理解していない。異世界人にくっついてこの世界にやってくる、寄生虫のようなもの。寄生した相手を取り込んで、恐ろしい力でこの世界を壊そうとする、そういうものだと聞いていた。

 一度そうなったら最後、もう寄生された人間ごと殺すしかない。


 ルーミケラウスは、ハイネスのたった一人の肉親だ。

 彼は彼女のために立場を捨てて、身を隠していたのに。

「ハイネスさん……」

「……そんな目で見るな。お前から、同情はされる覚えは無い」

 鋭い視線に、憎悪の色が見えた。血の気が下がる。(傷つけた)そんなつもりじゃなかったけど、どうしようもない自己嫌悪が湧き上がった。

(私は、いつもそうだ)

 苦しくなって、下を向く。

 他に方法はないんだろうか。

 言ってしまいたい言葉を堪えた。もしもあるのなら、そんな悲壮な顔はしない。誰よりも、他の方法があればと思っているのは、きっとハイネスだ。


『お前1人に、敵対者を斃せるとは思えない』

「……耳に挟んだ情報が確かなら、敵対者の力の源は分かたれた。本来のものよりも、弱体化している筈だ」

『なら、教会に出たというあれも?』

「おそらくは。……町にはまだ他にも数体潜んでいる筈だ。何を、狙っているかは知らないが。町に戻ったら、ケラスに報せておけ」

 その言葉に、弾かれたように菊乃は顔を上げた。

「ハイネスさんは……」

 続く言葉を口にすることが、酷く怖かった。

「戻りますよね?」

 ここで一緒に戻らなくても。一人でルーミケラウスを追って行ってしまっても。

 終わらせる、と言った。

 ルーミケラウスを終わらせて、その後は。ハイネスはどうするのだろう。いつまで待っても返事はなかった。けれど、菊乃は知っている。ハイネスは、もう戻らない気でいるのだと。

 目が痛い。

 しつこく吹く風が、その辺りの砂を巻き起こしていくから。


 どうしてこんな気持ちになるのだろう。


 不安で、怖くて、哀しい。痛いのは目だけではなくて、胸の辺りが苦しかった。何も言葉を残さないまま、ハイネスが歩き出す。儚い砂に残した足跡も、すぐに風が消し去ってしまう。

 いなくなるんだ。

 さらさらと、流れて消える足跡を見つめる。


 おいていかないで。


 もう少しで叫びそうだった。そんな風に言ったって仕方がないと分かっているのに。菊乃とハイネスには、何の繋がりもない。

 でも。

 そのまま、黙って見送ることはできなかった。ハイネスの背中を追って、走り出す。その後を、獣の姿のハルラックが何も言わずについて来た。

「……何のつもりだ」

 ハイネスは、暫く歩いてから足を止め、冷めた目でついてくる2人を睨みつけた。

「一緒に行きます」

「俺が何をするか不安か」

「心配です」

 訝しげに眉根を寄せて、ハイネスは菊乃を見つめる。

「町に戻らないのは、良いです。寂しいですけど、ハイネスさんの自由だから。でも、死ぬのはダメ」

「………」

「ハイネスさんは、お姉さんを終わりにしたら、自分も一緒に死ぬつもりなんでしょう?違う?」

 温度のない瞳に見つめられて、居心地が悪い。図々しく、他人の心に踏み込むような言葉を吐いていると分かっているが、黙っていることはできなかった。

「私、少し分かります。私も家族は、お母さんだけ。ずっとそうだったから、新しい家族ができた時、お母さんが新しいお父さんと結婚した時、私だけ、一人になったみたいで、寂しくて。ほんの少し、帰りたくないなって思ったら、ここに来てました」

 もうずっと、前のことのような気がする。

「ここには、本当に誰もいなくて、今度こそ本当に一人で、怖くて寂しくてどうしようって、ずっと苦しかったです。でも、助けてくれる人もいて。ハイネスさんも、そう。一番辛くて哀しい時に、私を助けてくれたんです」

 菊乃を認めてくれた。

 ハイネスにしたら、大した意味は無いことだったのかもしれない。誰かの代わりだと、そんなような事を言っていた。しかし、それでも嬉しかったのだ。

「ハイネスさんが死んだら、私は悲しいです」

 憎むべき敵でも見るような眼差しが、一瞬だけ揺れる。瞬きの後に現れたのは、拒絶の色だった。

「助けたかったのは、お前じゃない」

「うん……知ってます」


 知ってはいたのに、改めて言われるとやはり胸が痛かった。


「でも、もうそういうのは良いんです。私は、私がしたいようにします」

 こちらを睨むハイネスを、菊乃は真っ直ぐに見返してそう告げた。

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