菊乃の窮地 3
青の血族?
聞きなれない言葉がまた出てきた。問いかけるが、返事は無かった。代わりに。
『目覚めるぞ』
と、少し緊張気味の低い声が聞こえてきた。するり、と横を通り抜けた黒い毛並みが、菊乃の前に立つ。そこに立たれると、何も見えない。多分、態とそうしたのだろう。
菊乃に見せたくない何かがそこにある。あるいは、何かから菊乃を隠したいのかもしれなかった。その何かは、ハイネス・ユーゴの他に思い当たらない。この部屋にはその3人の人間しかいないのだ。
目覚めるぞ、とハルラックは言った。
ハイネスが気が付いたのなら、それは喜ばしい事だ。何故こんな状況になるのか、分からない。分からないが、それを説明してもらえるような状態ではない事は、菊乃にも分かっていた。
『傷ついた青の血族は厄介だ。手加減はできない……君が、望まなくても』
どういう意味。
ハルラックが低く喉を鳴らす。
一瞬体勢を低くして、それから前へと飛び掛っていった。俊敏に動く大きな黒い体が遠ざかった事で、漸く菊乃にもハイネスの姿が見えた。ゆらりと頼りない足取りで立っていた青年は、次の瞬間飛び掛ってきたハルラックに向って牙を剥いた。
かっと見開かれた紫の瞳が一瞬で赤く染まる。
獣の姿をとっているハルラックの鋭い爪を飛び退いて交わす。その動きは、運動神経が良いでは片付けられないようなものだった。異世界人だから、なのか。
横に飛び、壁を蹴って回し蹴りを食らわすハイネス。身を捻って交わした直後、ハイネスの足に食らい付こうとするハルラック。
目まぐるしく繰り広げられる争いに、菊乃はその場を一歩も動けなかった。
どうして。
何故こんな事になっているのか。
思考が停止している間も、ハイネスがハルラックの体を殴打し、ハルラックの爪がハイネスの体を傷つけている。
獣の姿になっているハルラックと同等の動きを見せるハイネスだったが、時間が立つにつれ若干動きに陰りが出てきた。当然だ。ついさっきまで、酷い怪我と高熱に魘されていたのだ。激しく動いた事で、閉じていた傷口も開いたらしく、当てていた布にも血が滲んできている。
このまま続ければ、ハイネスは今度こそ死んでしまうかもしれない。
(止め、ないと)
呆然としている場合ではない。漸く動き出した頭で、必死に考える。止めたくても、激しくぶつかり合う2人の間に割って入る事はできそうにない。動きを目で追うので精一杯だ。
何か自分にできること。
思い至るのは、1つしかない。
目を閉じて、深呼吸をする。自分の中の揺らぎに意識を集中し、ありったけのものを引き出した。
「!」
次の瞬間、菊乃は水の中にいた。
自分でやったにも関わらず、一瞬水を飲んでしまった。顔を上に向け、地面を蹴って水面を目指す。
やりすぎた。
何とか水面に顔を出し、呼吸をする。床に足が着かない。長細い部屋は、今や大きな水槽のようになっている。
『……キクノ』
同じように顔を出したハルラックの、物言いたげな視線を感じた。
「ごめんなさい」
『……いや、良い。これで良かったかもしれない』
一言も責めない、彼は優しい。
『この水にはミリニエルの力が宿っている。これだけあれば、青の血族に足りるだろう』
青の血族……ハイネスは未だ水面に上がってこない。まさか、泳げないのだろうか。いや、そういえば彼の両足には鉄枷が付けられていた。あれでは、泳げても上がってこられないかもしれない。不安に駆られた時、思ったよりも近い位置に頭が出た。
丁度、ハルラックと菊乃の間辺りだ。
濡れた銀の髪を鬱陶しそうに払い、ハイネスは菊乃を見た。背筋に緊張が走る。合わさった目の色は、冷たく澄んだ紫。以前と変わらない鋭い眼差しの中に理性の色を見つけて、菊乃はどうしようもなく安堵した。
「……これはお前の仕業だな?」
許可の無い能力の行使は、保護法違反に当たる。
「すみません」
また、保護施設行きかもしれない。
「いや。……助かった」
言われた言葉に耳を疑う。目を丸くする菊乃に気がつかず、ハイネスは辺りを見渡した。
「それで?何故お前達がここにいる」
『お前の姉に連れてこられた』
直球だ。
どう言おうか迷っていた菊乃は、どきりとした。
「……あいつは今どこにいる」
『さあな。俺とキクノをお前の餌代わりに放り込んで、どこかへ行った。行き先なんか、俺達に分かる筈が無い』
ハルラックがやけに刺々しいのは、気のせいだろうか。
2人の間に流れる空気が冷たい。
今までの事を考えれば無理はない。一度はハイネスに捕まっているし、その上先程は手当てしたのに襲われた。何であんな事になったのか分からないが……、そろそろ辛くなってきた。
険悪な雰囲気よりも、ずっと立ち泳ぎしているこの状態が。
この水は普通の水ではないようで、最初は楽に浮かんでいられた。それが、途中から徐々に体が沈むようになり、今はちゃんと手足を動かさないと、浮かんでいられない。
そんな理由で、2人の会話に口を挟む余裕は無く、必死に泳いでいたのだが。
「……っぷ」
一度沈み、顔を出して息を吸う。
自分の出した水で溺れるなんて、情けない。虚しい気持ちで、もう一度沈みかけたところ、力強い何かに引っ張り上げられた。
「!」
目の前に、濡れた銀の髪を見つけて瞠目する。
引っ張り上げてくれたのは、どうやらハイネスの片腕だ。菊乃の背に回し、水に沈まないように支えてくれている。
「あ、ありがとうございます」
「……全くお前は、手がかかる」
近くにある紫の瞳を、どうしても直視する事ができなかった。教会でもこうして、助けられた。あの時、自分を支える体温に、どれだけ安堵したか分からない。
しかし、今は。
安心よりも落ち着かない気持ちの方が強い。
目が見えているせいか、その距離の近さを意識してしまう。単に、助けてもらっているだけだと分かっているが。
冷静になろうと務めていても、徐々に顔に熱が集まってくるのを感じていた時。
『……キクノを離せ』
低い声が聞こえた。
ハルラックの声だ。いつの間に菊乃の背後に移動していたようだ。その体を支えるように押し上げられる。
『青の血を受け継ぐお前に、キクノは預けられない』
「………」
敵意すら感じるようなハルラックの言葉に、ハイネスは不快そうに眉を寄せた。だが、ゆっくりと腕が外される。
ハルラックの背に支えられながら、菊乃は困惑していた。先程から出る青の血とは何の事だろう。2人の間では通じているようだから余計に、聞き難い。
だが。
「青の血とは?」
疑問を口にしたのはハイネスだった。分かっていなかったのか。
『思い当たるところはあるだろう。他者の命を吸い上げて、その身の力とする者達だ。戦場にあれば、ただ1人生き残る者』
「………」
他者の命を吸い上げて。先程もそんなような事を言っていなかったか。この水には力があるから、青の一族にも足りるとか、そんなような事だ。近づくな、とも言っていた。
他者の命を吸い上げる……、食べられるとかそういう事だろうか。
先程、正気を無くして襲い掛かってきたのは、その為?
『だからこそ、敵対者に出会っても生き延びた』
分かるのは、凍りついたようなハイネスの瞳が、やけに辛そうに見えたことだけ。




