菊乃の窮地 2
同じ世界に生きているのに、許されない。
同じ心があるのに、認められない。
異質だから。
その悲しみを、痛みを、怒りを、誰よりも知っている。
連れて行かれたのは、砂漠だった。息が白く凍える程の冷えた砂の海が、突然切り替わった。リモコンでテレビのチャンネルを変えたみたいに、一瞬で、そこは砂漠から泉を隠した小さなジャングルへと変わった。
白い石で出来た大きな白い建物が遠くに見える。そんなに大きく無い、四角い箱のような建物だ。
先を歩くルーミケラウスは、菊乃に現状を把握する猶予も与えてくれなかった。
「のんびりしてる時間はないわ。さっさと来て」
心なしか、言葉も刺々しくなっている。
隣に立つ、黒い豹の姿になったハルラックと視線を交わし、彼女について歩き出した。
(巻き込んでごめんなさい)
そんな思いを込めて、獣の首の辺りを撫でると、気にするなとでもいうように頬を寄せられた。艶やかな毛並みは肌触りが良く、菊乃の気持ちを落ち着かせてくれる。
砂に足をとられながら、何とか白い建物の前にたどり着いた。何の装飾も無い、白い石を積み上げ塗り固めたような壁。中心にある金属製のドアに、ルーミケラウスは手を当てた。ずぶり、と指の先が黒っぽい金属の中に沈み込む。
ぎょっとして見ていると、かちかちと音がして、ドアが開いた。ルーミケラウスは埋まっていた指を引き抜くと、何でもないような顔で振り返る。
「入って」
思わず目で追った指の先は白いまま、汚れたりはしていなかった。どうなっているんだろう、あのドアは。
気になったが、触る勇気は無い。
促されるまま建物の中に入った。暖かい空気に触れてほっとする。あの冬のような寒さの中、長袖とはいえ寝間着の薄い服で過ごすのは、厳しかった。
建物の中は白い壁でいくつかの部屋に区切られているようだった。玄関みたいなものはなくて、いきなり狭い通路が奥へと続いている。通路の両脇は白い壁。金属製のドアが交互に8つほど並んでいる。1つのドアに1つの部屋があるのだとしたら、そんなに広い部屋では無さそうだ。
こつこつと、足音がよく響く。
ルーミケラウスは入り口から数えて3番目のドアの前で足を止めた。今度は指を突っ込んだりしなかった。ドアに掛けられていた銀色の鎖を外すだけで、開いた。
ドアが閉じないように押さえながら、ルーミケラウスは菊乃達を呼んだ。
このまま、捕まってしまっても良いものか。今ならば、逃げられそうな気がする。ハルラックが一緒なら。
どうする、と問うように、ハルラックの飴色の瞳が、菊乃を窺う。
『……人がいる、中から血の匂いがする』
「え」
『この匂いには覚えがある。……ハイネス・ユーゴだ』
菊乃は目を見開いた。
事件以来、行方不明になっていたハイネスがここにいる?考えるよりも先に、足が動いていた。ドアに駆け寄り、中を覗く。縦に細長い部屋だった。その奥に、壁にもたれるようにして俯く人影が見える。
高い小窓からの月明りだけでは、暗くて良く分からない。
意を決して、菊乃は部屋に足を踏み入れた。ハルラックも後ろからついて来る。
褐色の肌に、青く光る銀の髪。
近づくにつれ、血の匂いが濃くなった。投げ出された両足首に鉄の枷が嵌められている。顔には何度も殴られたような痣があり、服の下から滲む血が、布を赤黒く染めていた。
「……酷い」
声が震える。
硬く目を閉ざしたまま、ぴくりとも動かない姿に恐ろしくなった。
「ハイネスさん?」
膝を付き、呼びかけるが返事はなかった。
薄く胸が上下しているものの、呼吸は浅い。すぐに病院に運ばないと、死んでしまうかもしれない。
振り返った先で、ドアが閉められるのを見た。
「ルーミケラウスさん!」
思わず叫ぶ。
「ハイネスさんを、病院につれて行かせてください!」
「残念だけど無理よ、今は困るの」
「困るとか、そんな事言っている時では無いです。このままじゃ、ハイネスさんが……弟、ですよね?どうして、こんな」
「弟だから、助けてあげたのよ。本当なら、もう死んでるところだった。大丈夫よ、そんなに簡単に死ねるなら、私たちもこんなに苦しまずに済んだわ。心配するなら、自分の身を心配しなさい」
声が足音と共に遠ざかっていく。最後の方は良く聞き取れなかった。その後、何度呼んでも、彼女は帰ってこなかった。
ドアは頑丈で、とても壊せそうに無い。部屋にたった一つの窓は高い位置にあり、菊乃でも抜け出せそうに無いほど小さかった。
『傷を見る。キクノ、手伝ってくれ』
早々に出る事を諦めたハルラックに呼ばれ、菊乃はハイネスの元へ戻った。言われるまま、力の抜けた男の体を横たえる。意識の無い成人男性の体を動かす事は、かなりの重労働だった。
触れたところの体温がびっくりするくらい熱い。40℃近いのではないだろうか。
「熱が、あります」
『傷口から細菌が入ったのかもしれない。傷口は深いが…、血は止まっている』
服を破り、傷口の一つ一つを確かめる。獣の姿での作業は、大変そうに見えた。人に戻っても、着る服が無いからそのままでいるのだろうが。
菊乃は辺りを見渡した。
隅に毛布が何枚か重ねて置いてある。少し埃を被っているが、匂いは問題無さそうだ。
「……ハルラックさん、あの、良かったらこれを」
黒い豹は、菊乃の差し出した毛布を見下ろした。何ともいえない沈黙の後、小さく溜息が聞こえた。
『……裸よりはマシか』
申し訳ない気持ちになりながら、菊乃は後ろを向いた。
「キクノ、ここに水を」
むき出しになった皮膚に、痛々しい傷跡があった。赤黒い血で固まった傷口を、なるべく直視しないようにして手を翳す。目を閉じて、身の内の揺らぎに意識を預け、水を引き出す。
ふわっとした水の塊が宙に浮かび、傷口を包み込むように鎮座した。
大分上手くできるようになった。傷口を洗うのに水がいる、とハルラックに言われて試してみたところ、あっさりと水を出すことができたのだ。
但し、加減ができなくて、床が水浸しになってしまったが。何度か繰り返す内に、コツがつかめてきた。
「君の呼び出す水には、ミリニエルの加護がある。きっと、この男を助けるだろう」
「ミリニエルの加護?」
「俺の世界にいる水の女神だ。癒しと浄化の力を持つ」
そうやって傷口を清潔にしたあと、乾いた布を当てる。これは適当な布が無かったため、菊乃の着ていた寝間着を破いて使うことになった。足首までの長さがある寝巻き用のワンピースだった事が幸いしたが、お陰ですっかり短くなってしまった。
包帯の代わりは、毛布の下にあった麻袋のようなもの。粗く編まれた紐を解いて、使用した。
ハルラックの見立てで折れているという右手の親指と人差し指、それから橈骨を添え木を当てて固定する。添え木には、ハイネスのベルトについていた金属の板を使わせてもらった。
熱が大分高いようなので、毛布を裂いて濡らし、額と首の後ろ、脇の下に当てておく。どこの世界も、必要な措置は変わらないようだ。
「ここでできる事はこれくらいだ。少し、眠った方が良い」
ハルラックの気づかいに、菊乃は小さく首を横に振った。疲れていたが、眠くは無い。床に敷いた毛布の上で、苦しげな呼吸を続けるハイネスを見つめて、菊乃は膝を抱いた。
目を離したら、その間に彼が死んでしまうような気がした。
「キクノ……、彼はおそらく死なない」
そんな菊乃を、ハイネスから遠ざけるようにハルラックは腕を回した。背後から抱え込むようにして、引寄せられる。
『気をしっかり持て』
いつの間にか、ハルラックは獣の姿になっていた。暖かい毛皮に包まれて、ほんの少し緊張が緩んだ。
『あまり彼には近づかない方が良い。彼からは、青の血族の匂いがする』




