菊乃の窮地 1
感じた違和感の正体を知る為に、菊乃は気づかれないように目を閉じた。声を聞いて、記憶の中の声と聞き比べる為に。
初対面の筈の彼女に、懐かしさを感じた。
それが最初に覚えた疑問。この人を、知っている気がする。この声を、どこかで聞いた。こちらの世界へ来てから、出会った人はそんなに多くない。
目を閉じたまま、菊乃は彼女の声を聞き、疑惑は確信へと変わる。
いくつかの疑問が氷解して、新たな疑問がいくつも浮かぶ。
目を開くと、彼女の深い眼差しとぶつかった。
視線が交わり、菊乃は知る。菊乃が気が付いたことを、相手も知ったということを。
どうしてここに。
疑問は言葉にできなかった。ここにいない筈の人。イスルド教会の地下で、菊乃の世話をしてくれていた人の1人。どうして。証拠は何も無い。だが菊乃が証言すれば、身柄を拘束して取り調べることもできたかもしれない。
そうすることができなかったのは、あの場の暖かく平和な空気を壊したくなかったこと。
それから、どこにいるかは分からないハイネス・ユーゴのために。
思ったよりも早く、保護施設を出る事になったことも意外だったが、それ以上にユーイのところではなく、ウィガーのところへ行くように言われたことに戸惑った。
見放されたのかもしれない。
そう思えば納得だったが、分からないのが何故かユーイが非常に不機嫌だった事だ。
『言っとくが、あくまで一時的な措置だからな。お前の保護者は俺だ。くれぐれも妙な真似はしでかすなよ』
菊乃が何か問題を起こせば、ユーイの責任になるから大人しくしとけ。
そういう意味だと思う。
何でそんなややこしい事になっているんだろう。ウィガーは既に、2人の人間の保護者になっているから、手に余るという事なのかもしれない。
だったら、ウィガーの宿屋にではなく、ユーイの屋敷に行った方が良いような気もするが。向こうは向こうで何か考えがあるようだ。護衛にハルラックを付けてくれるくらいだから、あんまり良い想像はできなかった。
自分が、ここへ来た意味を、菊乃は早々に理解した。
有り得ない再会によって。
彼らもまた、疑っていたのだ。ハイネス・ユーゴが黒にしろ、白にしろ、その姉が全く無関係であると言えるかどうか。
「気が付いたのに、どうして言わなかったの?」
深みのあるしっとりした声が、囁く。
部屋の明かりは消えているけど、月明りがあるから完全な暗闇にはならない。寂しそうな微笑を見せるルーミケラウスの顔も、はっきりと確認できた。
こんな顔の人だったんだ。
何となく感慨深い。声で想像したよりも、ずっと綺麗な人だった。肌の色や、目の形なんかがハイネス・ユーゴに似ているかもしれない。何も言われていなくても、気がつけただろうか。
「皆、楽しそうでした。志真ちゃんや、フィオーネさん、皆も、きっと悲しむから」
少し前まで、楽しくおしゃべりしていた志真もフィオーネに目を向ける。それぞれ敷いたマットの上で、すっかり眠ってしまっていた。菊乃達の話し声は届かない、深い夢の中にいるようだ。
眠る前、ルーミケラウスの淹れてくれたお茶を、菊乃は飲まなかった。
「……いずれ、知るわよ。早いか、遅いか、それだけで」
「このまま何もしなかったら、私」
「駄目よ、キクノちゃん」
嫣然と、ルーミケラウスは微笑んだ。
「もう遅いの」
優しい声に、ぞっとするような狂気が混じっていた。
「黙っていてくれてありがとう。お礼に、せめてここから出て行く事にするわ。勿論、貴方が私を黙って行かせてくれたら、だけど」
膝を立て、ゆっくりと立ち上がるルーミケラウス。何か、恐ろしい予感を抱きながら、菊乃も立ち上がった。
「ここを、あの教会のようにしたくはないでしょう?」
「ルーミケラウスさん」
声が震える。
世話焼きで、明るくて、色っぽいお姉さん。宴会で見た、そんな彼女の雰囲気はどこにもなかった。
「ねぇ、お願いキクノちゃん。私もね、可愛いシマちゃんやフィオーネを、できれば殺したく無いって思ってる」
妖しく微笑みながら、残酷な言葉を口にする。
できれば、っていう事は。必要があるならするという事だ。
「黙って来てくれるわよね、キクノちゃん」
鈍く光る赤紫の瞳に、胸の奥がざわついた。異様に伸びた鋭い爪が、寝息を立てて眠るフィオーネの柔らかな首に添えられる。
眩暈がした。
「外の獣も黙らせておいてね」
今にも、フィオーネの首が切り裂かれそうで、頷くより他になかった。
***
真夜中に、黒い獣の背に乗り2人の女と見られる人間が逃走。
見張りについていた隊員が追跡したものの、途中で見失った。
その報告を受けたユーイの機嫌は、当然ながら最悪だった。黒い獣は、ハルラック・エジで間違いない。2人の女はルーミケラウスと、坂巻菊乃だ。
「あの馬鹿」
妙な真似はするなと言ってあるのに、何でこういう事になる。
「家に連れてこないで、ウィガーのところになんか預けるからですよ」
良い大人の癖に意地を張って、と呆れたように溜息を吐くジェレミーを、ユーイは睨んだ。
「言っておくが、今回の事を取り決めたのは俺じゃない。ユリウスの馬鹿だからな」
「ユリウス殿下ですか」
眉をひそめ、顎に手を置き思案するジェレミー。
連絡を貰ってから情報収集に走らせていたはずだが、その服装には一分の乱れも無い。
机に山と詰まれた資料を漁っているユーイとは、大違いだ。こっちは着替える暇も無く働いていたというのに。何なんだその余裕は。
「何をお考えだったかは大体想像はつきます。ですが、1つ、貴方方の予想していない不味い事態が起こっているかもしれません」
「随分脅すな」
「ウィガー預かりの異世界人、カガミ・イブキの話によると、彼の飼うヴィーダにクルーセルが使われたらしいのです」
クルーセル。
ヴィーダを惑わす魔草の1つだ。
「ヴィーダの中毒症状は深刻で、現在病院にて治療中だとか」
何故そんな真似をしたのか。ヴィーダが覚醒した敵対者を嗅ぎ付ける能力を持っていることを思えば、おのずと答えは出て来る。
「近くに敵対者がいるってか」
「あそこにはイブキがいますから。彼の兄が接触を試みようとしている可能性はあります。ですが、僕の勘では別口ですね。教会に現れたという敵対者……、目撃者の証言が確かならば、変体可能のところまで侵食が進んでいた。ウィルドの核が盗まれて、1月も経っていないに関わらず。もう1つの気がかりは、変体可能な敵対者にしては被害が少なく、あっさりと倒されている、その弱さです」
菊乃が敵対者に有効な特別な力を持っている。
その可能性も無くは無いが、一連の事実を照らし合わせると、敵対者自体が弱体化していたと考えた方がしっくりくる。
それは、ユーイも分かっていた。
「ここからは完全な推測でしかありませんが、奴らは敵対者の核を分裂させる事に成功したのでは」
それは既に、実現困難として停止された研究だ。
「本来は、敵対者を無力化する為の研究でしたが。彼らは敵対者の増産が目的なのかもしれません」




