菊乃の信頼 1
灰谷志真。
もう会う事は無いと思っていた同じ世界の人間と出会って、菊乃は戸惑っていた。
日に焼けた肌に、くるくるとよく動く明るい色の瞳の、いかにも健康的な少女だ。背が高くて、女子にしては短めのショートカット。それが快活そうな彼女によく似合っていた。
きらきらと目を輝かせて、生き生きと表情を変える。
(明るい……)
それがとにかく第一印象だ。
元の世界、日本にいた時は、あんまり身近にいなかったタイプの人間だ。明るくて社交的で、人と仲良くなるのが上手。クラスの中心で眩しい存在が志真なら、菊乃はいつも隅っこで一人読書しているような目立たない存在だ。
話をするのは、同じように本が好きな大人しいタイプの人ばかりだった。
そんな理由もあって、若干気後れしてしまう。話が合うだろうか。というか、本当に一番恐れているのは、鬱陶しいとか、暗いとかそういう風に思われてしまうこと。
まさか、菊乃がそんな不安を抱いているとは知らない志真は、無邪気に菊乃に話しかけてきた。
「ねぇ、菊乃ちゃん…、あ、菊乃ちゃんって呼んで良かった?」
「は、はい」
いきなり名前にちゃん付け。
最初は大抵苗字に「さん」付けが普通だった菊乃は、驚きながら頷いた。別に嫌なわけではない。ちょっとばかり、照れるだけだ。
しかし、これが彼女の普通……。
「えっと、じゃあ、志真ちゃん」
頑張って、彼女に合わせようと呼んでみると、何故か志真は目を丸くした。ぽかんと口も開いている。
ま、間違えた…?
密かに焦る菊乃の前で、志真は徐々に頬を赤くした。
「うわ、志真ちゃんとか呼ばれるの幼稚園以来かも。なんか照れるね。うわー、新鮮だけど何か恥ずかしい!っていうかなんだろうこれ、何かきゅんってきた」
「……お前は何を言っているんだ」
呆れた顔でウィガーがつっこむ。
「いやいや、だってさー。ねね、菊乃ちゃん、もう一回呼んでみて」
「え……」
何で?
きらきらと、志真は期待に目を輝かせている。この状況だと、非常に呼びにくい。妙なプレッシャーを感じる。徐々に顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「だから、お前は一体何をやっているだ!」
ウィガーが眉間に皺をよせ、思い切り志真の頭にげんこつを落とす。かなり良い音がしたから、痛かった筈だ。
「ちょっと、何すんの!」
「お前が馬鹿な事ばかりやるからだろう」
「だからって頭叩くことないでしょ!ぱーならともかくぐーだし!」
言い合いを始めた2人を見ながら、菊乃はほっとしていた。志真には悪いが、ウィガーが口を挟んでくれて助かった。なんだったんだろう。よく分からない。
変な人。だけど、多分悪い人ではなさそうだ。
それにしても。
(仲良いな……)
遠慮なく悪口を言い合う志真とウィガーを見て、菊乃は口元を緩めた。
しかしこれでは、ウィガーから話を聞くことは出来ない。
できればハイネスのことについて、聞きたかったのだが。
散々躊躇った後、ついにジャンナに連絡をとったのは、一昨日の晩のことだ。
忠告を受けたとおり、シーツの中に潜ってジャンナから貰った指輪を押した。石の部分を押し込むと、かちりと小さな音が響く。続いて、微かなノイズ音。
これで、良いのだろうか。
不安に思いつつ、そっと声を掛けてみた。大きな声を出すと、誰かに聞かれるような気がして、本当に囁くような声になった。
「ジャンナさん?」
程なくして返事があった。
『あー症例38ちゃん、良かったわー、ちゃーんと連絡してくれてー。もうこないかと思ったわよー、この待たせ上手ぅ』
……。
意外に鮮明に聞こえる。声は少しばかり小さいが、状況を考えればこの方が良い。
『大丈夫ー?ま、貴方が酷い事されることは無いって思うけどねぇー。良いのか悪いのかはわかんないけどぉ』
「私は、大丈夫です。けど……どういう意味ですか?」
『長くなるけど、聞きたぁい?でもあんまり時間取れないから、ハイネちゃんのこと話せなくなるかもー』
それは困る。
意味ありげなジャンナの言葉は気になるが、優先順位をつけるならハイネスの事が先だ。
「ハイネスさんの話が聞きたいです」
きっぱりと告げると、微かに笑い声が聞こえた。
『そぉ?じゃあ予定通り』
「お願いします」
『はいはい。さぁて、時間が惜しいし、手っ取り早くいくわよー。ハイネちゃんは、今シュターク教派だっていう疑いかけられて追われてるって話はしたわよねー?何でそんな事になっちゃったかっていうとー、何故か休暇中のハイネちゃんが事件の起きた現場にいたこと、それからー、その後行方を晦ませたことがねぇ』
どーこ行っちゃったのかしらぁ、心配ねぇ。と言うものの、ちっとも心配しているようには聞こえない。
口調のせいだろうか。
少し面白がっているような。
『真面目なハイネちゃんに何があったか知らないけどー、ね、38ちゃん』
症例が消えて、ただの数字になってしまった。
『貴方現場にいたんでしょう?でぇ、ハイネちゃんに助けられたっていうのはほんとうー?その時、何か言ってなかったー?』
交わした言葉は多くない。
何か特別な意味があるような事は言っていなかったと思うが。
「あまり、時間なかったです。変な音して、ハイネスさんが、逃げろって言って。それから……」
その後の記憶ははっきりしない。
とても、怖かったことだけは覚えている。
「気になっている事は1つだけあります。助けてもらって、お礼を言いました。その時、ハイネスさんが、お礼は必要ないって、言いました」
『ふんふん、それでー?』
「……それだけ、何ですけど。あの、その後何か言おうとしていました。でも、何か…邪魔が入って」
『聞けなかったのねぇ。うーん、意味深ねぇ、確かに何か気になるかも』
「……ハイネスさんは、無事なんですか」
『少なくとも、聖殿で回収された死体の中にはいなかったみたいよー。だから、追われてるんだしー』
死体という言葉に、逃げる時に聞いた悲鳴や叫び声が蘇り、背筋が冷えた。
『うちも必死よぉー。あーんな酷い事件が起きちゃって、その上うちの隊員が関わってるかもしれないなんてねー』
「ジャンナさんも、ハイネスさんのこと、疑ってますか?」
『どうかしらねぇー。ハイネちゃんらしくない気はするけど、人って他人の事全部分かるわけじゃないし。ただねぇ、動機も理由も証言も揃ってるっていうのが。私ねぇー、こう見えて捻くれ者なのよぉ。だからなーんか疑っちゃうの。……何か裏があるんじゃないか、って』
裏……。
『ねぇ、38ちゃん。できたら、ウィガー・ハルベルトと話をしてみてくれなぁい?』
「え、ウィガーさん、ですか?」
『そうそう。何か彼も現場にいたらしいのよねぇ。今も保護施設内で隔離中らしいからぁ、頼んでみたら会えるんじゃないかしらー』
ウィガーもあの場にいたのか。
そういえば、あの時誰かが自分の名前を呼んだような気がする。もしかして、あれはウィガーだろうか。
『ウィガー・ハルベルトはハイネちゃんと知り合いだし、何か話している可能性もあると思うのよねぇー。彼の目からどう見えたか、その辺も聞きたいわー。本当は直接尋問したいけど、ちょっとねぇー。頼めるぅ?』
おねだりする様な、甘い声で囁かれる。
勿論、少しでも事情が知りたいのは菊乃も同じだ。ウィガーが何か知っているかもしれないというなら、聞いておきたい。
ちゃんと、話してもらえるかは分からないが。
『ウィガー・ハルベルトと話せたら、また連絡頂戴なー。そしたら、ハイネちゃんが疑われてるもう1つの理由を教えてあげるわぁ』
できれば今すぐ教えて欲しい。
そう、菊乃が口にする前に通信は切れた。その後は全く繋がらず。
何だか、良いように使われているような。
他に方法も無いので、菊乃はハルラックを通して、ウィガーと話をしたいという要望を伝えてもらった。駄目もとだったが、その希望はすぐに通り、こうして今日その機会を与えてもらったのだ。




