菊乃の恩人 3
部屋に沈黙が落ちていた。
(えっと……?)
癖のある黒髪の青年は、ドアの方を向いたまま動こうとしない。菊乃は若干混乱している。最後のジャンナの言葉、あれはどういう意味なのだ。
『ハルラック・エジ』って。
あれは呼びかけだったと思う。そこにいる人の名前を呼んだ。呼びかけられたのは、目の前にいる彼だ。
(え、でも、ハルラックさんは…)
他にいる。菊乃の知っているハルラック・エジは、黒い獣の姿をした異世界人だ。同姓同名?だとしたら、菊乃の護衛につくというハルラック・エジは、この人で。
でもそれだと話が繋がらない。
ユリウスという人は、菊乃の知り合いを護衛に回すと、そんな風な事を話していた筈だ。
(人、間違い?)
そう思う一方で、否定する心がある。青年が誰に似ているのか分かったからだ。彼の瞳や声は、あの黒い獣に似ている。菊乃の知るハルラック・エジに。
そんな、馬鹿な。
「あ、あの」
途方に暮れた気持ちで呼びかけると、青年の広い肩がぴくりと動いた。ややして、ゆっくりと振り返る。菊乃を見下ろす柔らかい蜂蜜のような色の瞳は、やはり同じだ。
「ハルラック、さん?」
静かに息を詰める青年の後ろで、ぱたりと下がる尻尾が見えるような気がした。有り得ないと思うのに、心のどこかで確信している。
小さく、青年は溜息を吐いた。
「……ずっと、謝らなければと思っていた」
深く響くような低い声音も、確かにあの黒い獣と同じものだ。黄金色の瞳に、憂いが見えた。
「俺が手を出したせいで、厄介な事になったから」
「……あの、ハルラックさん、なんですか?」
「…………ハルラック・エジ。一応それが俺の名前」
「海で、溺れた時に助けてくれた…?それから、町で攫われた時にも来てくれた、あの黒い……」
獣、という言い方は失礼な気がした。言葉が見つからず困る菊乃に、ハルラックは目を細めた。
「あれは俺のもう1つの姿。俺のいた世界ではありふれた人種の1つなんだが、ここでは違う。きっと、君の世界にもいなかっただろう。理解はし難いと思う」
素直に菊乃は頷いた。
動物に変身する人間なんて、漫画や小説にしか出てこない。何て非現実的なんだろう。だがそもそも、異世界に来ていること事態が普通ではない。
「この場で変じて見せれば分かりやすいと思うが、規定に触れるんだ。他に証明する手段は……悪いが思いつかない」
「でも、信じます。あの、ずっと知っている人のような気がして。分からなくて」
しかし一度受け入れてしまうと、そうとしか思えなくなっていた。
「助けてくれて、ありがとうございます」
いつか機会があったら言おうと思っていた言葉が、するりと口を出た。言いたい事はまだまだある。
「海の時も、攫われた時も、ちゃんとお礼をできなくて、ごめんなさい。それから、迷惑をかけてごめんなさい」
「礼も謝罪も言わなくていい。そのせいで、君を厄介な立場に置く事になった」
その言葉で、ハルラックが何を気にしているのか分かった。異世界人に助けられた事、それが菊乃に掛けられた疑いの切欠の1つだ。菊乃の方も自分を助けたせいで、ハルラックが迷惑を被っているのではないか、そんな風にずっと不安で。
まさか同じように、ハルラックも気にしているとは思わなかった。
だって。
「ハルラックさんがいなかったら、私は、生きていないです」
最初の海で、死んでいた筈だ。何も分からないまま。
「辛い事、怖いこと、たくさんあります。でも、それだけじゃないです。助けてくれる人もいました。怖いけど、怒ってくれた人も。……私は、生きていて良かったと思います」
菊乃はまっすぐにハルラックを見つめ、深々と頭を下げた。自分がどんなに感謝しているか、少しでも伝わると良いと思いながら。
「ありがとうございます」
「ああ……うん」
驚いたような顔で目を瞬かせた後、ハルラックはゆっくりと口元を綻ばせた。笑顔というにはごく薄い笑みだったが、柔らかく優しい雰囲気になる。
「俺も君を助けられて良かった。ありがとう、キクノ」
助けた方がお礼をいうなんてちょっと変だが。菊乃は笑った。ずっと胸につっかえていたものが漸く取り除かれて、久しぶりにすっきりした気持ちになっていた。
しかし、まだ気になる事はある。
「でも、どうして急に、ハルラックさんが護衛なんですか?」
彼は保護施設で監視処分になっていた筈だ。その上、どんなに頼んでも、会わせてはもらえなかったのに。
菊乃の疑問に、ハルラックも再び表情を硬くした。
顔のつくりが整っているだけに、笑みを消すだけで迫力のある顔つきになる。
「俺にも分からない。だが、多分原因は君の方にあると思う」
「……私、に?」
菊乃は眉をひそめた。心当たりは無い、というか、分からない事が多すぎて判断ができない。目の色が変わってしまっていることと、何か関係があるのだろうか。
何にせよ、もしそうなら、またハルラックの事を巻き込んでしまっていることになる。後ろめたい気持ちになった。
「連中の考えは分からないが。……心配しなくていい。君の事は俺が守る」
ハルラックは真顔で、柔らかな言葉を口にした。
君の事は守る、そんな物語のヒーローがヒロインに言うような台詞を、自分が聞く事になるとは。
そこに特別な意味や、甘い感情等含まれていないと分かっていても、反応に困る言葉だ。
第一、只でさえ助けられ、迷惑をかけているのに、この上頼るわけにはいかない。
「いえ、あの、私は大丈夫です。ハルラックさんが怪我とか……、そっちの方が困ります」
「なら怪我はしないように注意する」
そういう事ではない。
「キクノ」
不意に、ハルラックが動いた。4歩の距離を音も無く縮めて、菊乃の肩に手を置く。反応する暇なく引寄せられて、気がつけば彼の腕の中にいた。
「!」
堅く、熱い人の体温。間近で響く他人の心臓の音。
驚愕して身を離そうとするが、背中に回された腕はびくともしない。
(な、なに…!?)
混乱と羞恥に、赤くなったり青くなったりしている菊乃の耳元に、そっとハルラックは口を寄せた。耳に熱い吐息を感じて、菊乃は息をのんだ。
(落ち着け。この部屋は監視されているから)
え……?
(反応するな、このまま。連中の考えは分からないが、1つ俺にも分かる事がある)
心臓の音に負けそうなほど微かな声音で告げた後、はっきりと言う。
「大丈夫だ、何も心配するな」
(連中は君と俺を接近させようとしている。理由は、分からないが)
はっきりした声と、微かな声を交えてハルラックは話す。重要なのは勿論小声の方だ。
「俺に君を守らせて欲しい」
(探る時間が欲しい。だから暫くは我慢してくれ)
そういう事か。
ハルラックと菊乃を近づける理由を知るために、敢えてこうやって親しくなっている様子を演出しているわけで、この行為はただのカモフラージュ、深い意味はないのだから意識する必要は全く………、何とか冷静に考えを纏めようとするが、無理だった。降参する。
「す、すみません、離してください、もう無理です」
恥ずかしさの余り死ねそうだ。
ゆっくりと、その腕から菊乃を解放したハルラックは、顔を真っ赤にした彼女を見て、気まずそうな顔をした。
「……すまない」
「い、いいえ、私……すみません」
恥ずかしい。
ただの演技なのに、過剰に意識して。だが、無理だ。全く異性に免疫が無い菊乃に、先程のような密着状態はハードルが高すぎる。
未だ静まらない心臓を押さえて、菊乃は深く息を吐き出した。
まともに顔を上げられない。
「……あの、私も頑張ります」
「………ああ」
取りあえず気持ちを落ち着ける為に、深呼吸を繰り返した。




