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菊乃の恩人 2

 ハルラック・エジ。

 菊乃の知る彼は、黒い獣の姿をしている。2度も菊乃を助けてくれた異世界『人』。恩人であり、自分のせいで迷惑を被っているという負い目がある相手だ。

 そんな彼の名前が挙がったことには、心底驚いた。

 菊乃の護衛になるという事は、具体的にどういう意味を持つのだろう。保護施設からの自由、それとも新たなる重荷となるのだろうか。良い事なのか、悪い事なのか。それは菊乃に判断できるものではない。決められるのは、ハルラックだけ。

 考えると、気が重い。

 ユーイとユリウスが出て行き1人になった部屋で、菊乃は再び目を閉じた。体がだるく、鈍い頭痛がする。少し熱が出ているようだ。

 考えることが沢山あるのに、集中することができない。


 シュターク教派。


 彼らは一体何をしたのだろう。あの時に何が起こっていたのか、結局聞けていない。祭りだと言っていた。直に菊乃を自由にすると。あれはそのまま元の場所へ返すとか、そういう意味合いではなかったような気がする。

 きっと、もっと怖いこと。

 逃げるように言ってくれた七海の言葉が蘇った。

『嘘つきなこの国に、騙されて利用されないように。忠告しとくよ』

 嘘とは、どういう事だろう。利用されると言ったって、菊乃にそんな価値があるのだろうか。そもそも七海の言葉は正しいのだろうか。確かに菊乃が逃げられたのは彼女のお陰だが、元々はシュターク教派と一緒に行動していた人だ。


 分からない。何を、誰を信じれば良いのか。


(でも、私は……)


 小さなノックの音に、菊乃は目を開けた。いつの間にか、眠っていたようだ。ベッドの上で身を起こすと、ドアが開いた。見たことの無い青年が、食事を載せたトレイを片手に立っている。

 背が高く、足が長い。精悍な顔立ちは、誰かを思い出させることはない、初めて見るものだ。だが、黒い癖のある髪の間から覗く黄金色の瞳には、見覚えがある。柔らかい蜂蜜のような色合いの瞳を、菊乃は不思議な気持ちで見つめた。

 何か、懐かしい。

「……食事を持ってきたんだが」

 菊乃は、はっと我に返った。ぶしつけに見入っていた自分に気がつき、気まずい気持ちになる。

「ごめんなさい。ありがとうございます」

「ベッドの上で食べるか?」

「あ、いえ。大丈夫です。起きます」

 男は何も言わず、テーブルの上に食事を置いた。

「また後で取りにくる」

 そう言って、男は部屋を出て行った。そのしなやかな背中を見送って、不思議に思う。

(あの人、足音しなかった)

 一時目が見えない中で生活していたせいか、以前よりずっと音に敏感になっている。足音を立てずに歩くなんて事は、意識しないで出来ることではないと思う。

 忍者とか、スパイ、とか?

 ただの施設の職員には見えなかったが、警戒心は起こらなかった。むしろ、妙な安心感すらあるくらいだ。何故だろうか。全く見覚えはないのに、知っているような。

(声も、どこかで)

 暫く思い出そうと頑張ってみたが、駄目だった。諦めて、食事をすることにする。漂ってくるクリームシチューのような匂いに、食欲が刺激された。

 立ち上がると少しふらつくが、問題は無い。柔らかい布で出来た上履きを履き、テーブルについた。用意されていたのは、練った小麦粉と野菜のミルクスープと、赤色の飲み物だ。

 ほのかに甘いスープは美味しかったが、半分も食べるとお腹がいっぱいになった。赤色の飲み物は甘酸っぱく、さっぱりとした味わいで、こちらは全部飲むことができた。


 食事が終わって暫くすると、先程の青年が片付けに現れた。不必要な事は話さない男に対して、菊乃も自然と無口になる。沈黙を、気まずく感じないのが不思議だ。相変わらず足音は聞こえない。それだって、不自然な事なのに。

 片づけをする青年をこっそり見ていたら、不意に視線がぶつかった。お互いに、息を飲む。

 僅かに見開かれた、暖かい黄金色。


 何だろう、やっぱり……。


 頭の隅に引っかかった違和感の正体に、あと少しで手が届きそうなその時、不意に青年が視線を横へ動かした。顔だけをドアに向け、しなやかな動作で菊乃とドアの間に立つ。しゅっと、ドアが開く音がした。が、菊乃の位置からでは彼の背中しか見えない。

「はぁーい、症例38ちゃん元気ー?って、あらあらー?どーして貴方がここにいるわけー?」

 場違いなほど明るい女性の声が響く。『症例38ちゃん』という呼び方、それから高めの色っぽい声にも覚えがある。

 それはこっちの台詞だ、とクールに答えている青年の後ろから、菊乃は顔を覗かせた。

 女性らしい柔らかな体つきをした、赤い長めのワンピースを着た女性がいる。小さな顔に大きなまる眼鏡をかけた垂れ目……この人は確か。思い出す前に、菊乃に気がついた女性が糸の様に目を細めて笑った。

「ひっさしぶりねー、症例38ちゃんー。覚えてるー?ジャンナよー」

 ひらひらと顔の横で手を振られ、菊乃は頷いた。

 ハイネスに連れられてケラスに行った際に出会った女性だ。

「嬉しいわー、無事で何より……って、ええ!あら!?どういう事ー!?」

 目をまん丸に見開いて、ジャンナはいきなり詰め寄ってきた。その形相と勢いに菊乃は首を竦める。近づけないように腕を伸ばした青年に阻まれながらも、ジャンナは菊乃の方へと身を乗り出した。

「何その目の色ー?変化したわけー?いつ、どうして、何でー!?」

「……?目の、色?」

 一体何を言っているのか。

「ええー?やだ、まだ気がついてないわけー?この部屋、鏡無いものねー、ちゃんと言っときなさいよー、保護施設の奴らってば何考えてるのよーもう」

 ぶつぶつ言いつつ、ジャンナは腰に下がるベルトについた鞄から、平たいものを取り出した。キラキラとした石で飾られた折りたたみ式の鏡だった。

「ほーら、見てよー」

 ぐい、と突き出されたそれに、菊乃の姿が映る。


「!」


 鏡に映るのは、驚いたように目を見張る自分の姿。見慣れた顔の中で、決定的に違ってしまっているものがあった。大きく見開かれた目の色だ。黒に近い焦げ茶だった目の色が、今は極淡い水色になっている。

 どうして。

 一時、目が見えなかったことと関係しているのだろうか。どちらにせよ、こんな風に目の色が変わってしまうなんて普通では無い。不安だ。また、目が見えなくなったりしたら。

「何が起こったのか、オネェさんに話してくれないー?そうしたら何か分かるかもしれないわよー」

 鞄に手鏡をしまいながら、ジャンナは言う。

「ハイネちゃんがシュターク教派のスパイだったって事で、ケラスの方が締め出し食らっちゃってるのよー、信じられない全くー」

 ハイネちゃんとは、ハイネス・ユーゴのことだ。ぶつぶつと文句らしき言葉を吐き出しながら、ジャンナは口を尖らせている。

「あ、あの、ハイネスさん、どうなったか分かります?」

「んー?どうって、シュターク教派の起こした教会の事件の重要参考人として指名手配中でー」

 小首を傾け、菊乃をじっと見つめる。その赤茶の瞳が急に輝いた、ように見えた。

「ハイネちゃんの詳しい情報、知りたーい?」


 ……何だか、前にもこんな事があったような。


「じゃあー、条件としてーちょっと検査と実験にー」

「………」

 黙ってジャンナを抑えていた男が無言で彼女を睨みつけた。

「はー、やっぱり許されないみたいねー、まー、良いわー。ここは平和に情報交換っていう事でー、どう?」

「良いです」

「決まりねー、じゃあ、これ」

 そう言って、ジャンナは菊乃に手を伸ばした。躊躇いつつも手を伸ばすと、小さな丸い輪っかを手渡された。小指にしか嵌らなさそうな小さな指輪だ。銀色で、やや厚め。3ミリほどの輪に赤く光る四角い石がついている。

「見つからないように持っててねー、通信機だからー。石のところを押すだけでいいわよー、後、ここは監視されてるから注意してねー。今はちょっと細工してあるけど、ずっとは無理だし。ま、音までは拾ってないから、シーツ被って寝たフリとかで誤魔化してー。症例38ちゃんの都合の良い時間でいいわー、大抵起きてるから」

 それじゃあねー、とジャンナは手を振ってドアへ向った。

「そろそろマズイから、もう行くわー。勿論、この事は内緒にしてくれるわよねー?」

 最後の言葉は、黒髪の男へ。

 にんまりとした笑みで、ジャンナは言った。

「ハルラック・エジ」

 しゅ、とドアが閉まり、ジャンナの姿は見えなくなった。

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