第63話:侯爵邸の異変
うまく監視の眼を交わし、明日に備えようと準備をするたきび。
しかし、その裏でドーザとテレスタリアが「不気味」といわざる負えない騎士団の状態だった。
目の前には、麦のような植物が広がる畑と、なだらかな丘陵地帯が夕陽に照らされ、黄金色に輝いている。
その先に、悪夢のような魔物が跋扈する『ムルジュ・カルタ』があるとは思えない、ただの美しい田園風景。
明日の朝、ここが数千の魔物に蹂躙されるとは到底考えられない光景だった。
「最高じゃん!」
俺はインベントリからテントを取り出し、手早く設営を済ませた。
入口のフラップを大きく跳ね上げてポールで固定し、愛用のハイバックチェアに深く腰を下ろす。
「……明日、ここに大群が来るのか。荒らされる前に写真でも撮っておきたいくらいだ」
森の方角を眺めても、やはり実感が湧かない。
久しぶりに訪れた静寂と絶景の中で、俺は異世界に転生してからの日々を思い返していた。
目覚めた直後の森でのサバイバル。
命がけのグリフォン戦。
謎のやばいスライムとの遭遇。
テレスタリアさんやドーザさんたちとの出会い。
そして、この町にたどり着いてからの怒涛の展開。
「のんびりスローライフを求めてたはずなのに、なかなかハードな異世界転生になってるなあ」
俺は背もたれに体を預け、ぐーっと背伸びをした。
まあ、今は目先の問題をクリアしていくしかない。
「さて、今日の夕飯は何にしようかな」
『スタレーニの消費は必須です』
「結構溜まってるよね、あれ」
『結構、というより致命的です。町で売りさばく目論見が外れた以上、今は一つでも多く胃袋に収めてください。このままではインベントリの許容量がスタレーニで埋め尽くされる日が来ます』
「はいはい、わかったよ」
俺は両膝に手を置き、気だるそうに立ち上がる。
インベントリから巨大なサニーレタスのような野菜、スタレーニを取り出し、葉を剥き始めた。
「なあ、明日、イノシシの魔物とか来ないかな?」
『以前召し上がった串焼きのボアですね。あれはマーブル・ボア、別名「霜降り猪」と呼ばれる魔物です』
「名前からして最高に美味そうだった!明日もし群れに混ざってたら、二、三匹倒して肉を確保してもいいかな?」
『魔物の死骸の所有権について、ギルドマスターから特段の制限は受けていません。後始末の手間が省けると、むしろ感謝されるかと』
「よし、決まりだ!」
俺は鼻歌交じりにスキレットを用意する。
『明日が町の存亡を懸けた決戦だというのに、霜降り肉の確保に意識が向くのは、いかにもマスターらしいですね』
アカシャの言葉は、皮肉にも呆れにも、そしてどこか頼もしげにも聞こえた。
「最高の褒め言葉として受け取っておくよ」
水切りしたスタレーニの葉を皿に盛り、焚き火台に火を起こす。
熱したスキレットに、インベントリで鮮度を保っていたウサギ肉を乗せた。
ジュウゥゥゥッ!
油が跳ね、香ばしい肉の匂いが夕暮れの風に乗って広がる。
そこには、明日数千の魔物が押し寄せるという残酷な現実から切り離された、キャンパーとしての至福の時間だけが流れていた。
◆
――たきびが空腹の少女と別れ、西の壁に向けて歩いていた頃。
ドーザとテレスタリアは、領主直属の騎士団が駐屯する詰め所を訪れていた。
しかし、内部は異様なほど静まり返っていた。
「……あまり、騎士がいる様子がありませんね」
埃っぽい廊下を見渡し、テレスタリアが不安げに呟く。
「ああ。避難誘導のために町に出ているのか、侯爵の屋敷に集められているのか、それとも……すでに逃げ出しているのか」
ドーザが厳しい顔つきで周囲を警戒していると、薄暗い部屋の奥から、一人の若い騎士が力なく歩いてきた。
その顔には深い疲労と、諦念の色が濃く張り付いている。
「お待たせいたしました……」
「状況はどうなっている?サーベツェリ侯爵からの指示は」
「……やはり、侯爵様からは何の連絡も入っておりません」
虚ろな目で首を振る若い騎士に、ドーザは眉間を揉み込んだ。
「そうなのだな……。騎士団長殿は?」
「防壁が爆破された時、真っ先に対応に出られたきり、お姿を見せておりません。……副団長も、です」
その言葉に、ドーザとテレスタリアは顔を見合わせた。
ノリアが外壁の大穴から現れる際、引きずってきた血まみれの男の姿が脳裏を過る。
おそらく、副団長も……。
「そうか……。今の事態を、侯爵様に伝えに行っている者はいるのか?」
「ええ。何人かの伝令が屋敷に向かいました。ですが……誰一人として、戻ってこないのです。連絡すら、一切ありません」
騎士の表情がさらに暗く沈む。
誰もが各々、最悪の事態を予想しているのだ。
「承知した。貴殿も大変だろうが……いや、なんでもない。時間を取らせてすまなかった」
ドーザは『頑張ってくれ』という言葉を飲み込んだ。
この騎士団に入りたてであろう若い騎士に、指揮系統が完全に崩壊した状態で、数千の魔物を前にしてもなお命を削るような一言を突きつけるのは、あまりに残酷だったからだ。
「行こう、テレスタリア」
詰め所を出ると、町の空気がひどく冷たく感じられた。
「ロンブリッツ伯爵家の名を出せば、何か事情が聞き出せるかと思いましたが……それ以前の惨状でしたね」
「完全に騎士団としての機能が失われている。今の状態だと、明日のスタンピードに対する侯爵軍の支援は『無い』と考えて動いた方がいいだろう」
ドーザは重いため息をつき、姪の顔を見た。
「どうする?どこか宿を探し、明日の防衛戦に備えて休むか?」
テレスタリアは少しの間、沈黙した。
伏せていた睫毛が震え、やがて、凛とした決意を宿した瞳で真っ直ぐに伯父を見据える。
「……いえ。私は今から、侯爵邸へ向かいます。伯父様は明日に向けて、宿でお休みください」
「今から!?ここから高台の屋敷までだと、歩いて一時間はかかるぞ!」
「はい。私には、明日の魔物との戦いで直接役に立てるような力がありません。ですので、せめて違う形で皆さんの役に立ちたいのです。領主の沈黙の理由を、この目で確かめてきます」
その揺るぎない眼差しを見て、ドーザはふっと口元を緩めた。
「わかった。行こう」
迷いなく歩き出すドーザの背中に、テレスタリアは目を丸くする。
「伯父様!?お休みになっていてくださいと……」
「馬鹿を言うな。私は君の護衛騎士だぞ。主君をこんな不穏な町で、一人歩きさせるわけにはいかないだろう」
「でも……お疲れのはずです!」
「心配するな。これでも体力には自信がある。それより、君の方は大丈夫なのか?」
「……はい!」
「では、行こう」
前を歩く広い背中に、テレスタリアは深い安堵と頼もしさを覚えた。
同時に、「自分も必ず人々の役に立つ」という強い責任感が、足に溜まっていた疲労を軽々と上書きしていくのを感じていた。
日も傾きはじめ、夜の帳が下りつつある町の通りを、ドーザとテレスタリアは足早に進んでいた。
町全体が、息を潜めるように静まり返っている。
窓枠の隙間から微かに漏れる灯りと、扉の奥から聞こえる押し殺したような声だけが、そこに人々が「隠れている」ことを示していた。
魔物の大軍が迫る恐怖が、夜気とともに町全体へ重くのしかかっている。
押し潰されそうな空気の中を歩き続け、二人は高台へと続く急坂を上り切った。
肺の奥が焼けるような息をつきながら、二人はついに、侯爵邸を隔てる巨大な鉄門の前へと辿り着いた。
しかし、そこには異様な光景が広がっていた。
「開けてください!侯爵様!」
「伝令です!緊急の報告が……!」
数名の騎士たちが、固く閉ざされた鉄門にしがみつき、声を張り上げている。
だが、屋敷の内側からは何の反応もない。
窓に明かりは灯っておらず、広大な敷地全体が、まるで墓場のような不気味な静寂に包まれていた。
「これは……一体どういう状況だ」
ドーザが近づいて尋ねると、途方に暮れていた騎士の一人が振り向いた。
「もう何度呼びかけても、誰も出てこないのです。門も内側からかんぬきが掛けられているようで、我々では勝手に中に入ることすらできず……」
風が吹き抜け、屋敷の奥から生温かい空気が漂ってくる。
それは、腐敗した土と、鉄錆のような……濃厚な『死の匂い』だった。
ドーザの顔が険しくなる。
「ただ事ではないな。これ以上、外で待っていても無駄だ」
頷いたテレスタリアが一歩前に出た。
彼女は鉄門の隙間から暗闇に包まれた屋敷へ向かって、よく通る声で宣言する。
「私は、ロンブリッツ伯爵家三女、テレスタリア・ロンブリッツ!この異常事態におきまして、無礼と責任は全て私が承知の上、邸内へ立ち入らせていただきます!」
静寂。
鳥の鳴き声一つ、葉の擦れる音一つ返ってはこない。
テレスタリアがドーザに目配せし、ドーザが強行突破のために門を破壊しようと大剣の柄に手をかけた、その時だった。
「おや。あなた方も、いらっしゃったのですか」
背後の暗がりから、ふいに声が響く。
足音も、衣擦れの音すらなかった。
二人が弾かれたように振り返る。
石畳の上に立っていたのは――
まるで、最初からそこに溶け込み、二人のやり取りをずっと眺めていたかのように佇むクロードだった。
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次回、第64話は【沈黙の邸内のその先で】(※次の話の予定タイトル)を更新予定です。




