言葉なんか使わずに
燃えるような朱色と薄紫色とが混じりあった、漠然と終わりを感じさせる夕焼けが空を覆う。
夕焼けがそうした色に見える理由は光の屈折率の差から生じるものであると物理的に説明がつくが。
夕焼けを見た人の心は言葉を重ねても形容しがたい。
同じものを見ているのに。
ある人は綺麗だと言い。
ある人は不吉だと言う。
どうして同じものを認識して、全く異なる感情を抱いたりするのだろう。
逆も然り。
どうして全く違うものを見て、同じ感情を抱くことがあるのだろう。
人の感情は、一つの言葉で表現するにはその在り様が複雑すぎる。
だから人は『自分』を持っていられるのだろう。
人と自分との違いは、その感情と意識が大部分を占めているはずで。
『今この瞬間に胸の内に溢れる感情』こそが自分を自分であると認める唯一の武器であって。
自分に特有の感情を持っていることが、何よりも自分を肯定する証拠になるというのに。
どうして。
同時に同じ人を好きになったりするのだろう。
そして、同時にその想いが成就しないのだろう。
誰かの想いが成就したなら誰かの想いは届かないまま。
胸が張り裂けそうな痛みを感じるくらいなら初めから好きになんてならなければよかったと後悔するし。
痛みも含め、こんな感情を教えてくれて有難いと感謝もする。
成就しなかった想いは忘れて、忘れなくとも次へと繋げて、きっと明日には前に進まなければならない。
感情の赴くままに行動すべきだと判断する自分と、自分という存在を理詰めに分析した上で行動すべきだと判断する自分とが敵対し。
結局答えもないまま流れる時間に身を委ねていく。
それは誰でも経験するようなありふれたことでありながら。
自分にしかわからない辛さが身を支配する。
恋愛とはそういうものだ、と。
心のどこかで納得させて。
恋愛とはそういうものじゃないはずだ、と。
心のどこかで問いかけて。
少年少女は成長していく。
何事も無く、体育祭は終了した。
擦り傷に軽度の打撲、足がつるなどの症状を被った学生が数名いるものの、特筆すべき大怪我を誰かが負う事も無く、熱狂の渦の中、体育祭は終わりを告げた。
各クラス各競技、全力で優勝を狙いにいった者たちから、早く終わらないかと願いながら参加した者達まで、それぞれがそれぞれの心境でありながらも、全体としては非常に素晴らしい行事であったと言えよう。
朝と比べて汚れが目立ち、多くの生徒が倦怠の空気を醸し出しながらの閉会式も、滞りなく執り行われた。
各競技の優勝クラスの発表、学年対抗リレーの結果発表、及び男女それぞれの新競技の勝利チームの発表は大きな盛り上がりを見せ。
毎年恒例となっている、三年生の生徒会長による次期生徒会長の発表も喧騒に混ざり行われた。
綾が閉会の言葉を告げ、生徒は一斉に教室へと帰っていく。
『夢の時間は終わりだよ』
と、誰かの言葉が聞こえてくるように。
普段の学校には無い特殊な時間はあっという間に鳴りを潜める。
恐らく、再び夢を見れることを願って、そう折り合いをつけて日常へと還っていく。
ホームルームも簡素に終わり、怠い身体をどうにか起こし、これまたおよそ一斉に下校していく生徒達の中、生徒会の面々は残りの気力でもって最後にもう一ふん張り、総括だけしてしまう。
そのため、全員が生徒会室に集結した。
普段は露骨に干渉したりしない教師陣も、さすがに今回ばかりは生徒会室に足を運び、教頭を含め二人、その労いを行う。
「とりあえず、お疲れ様。おかげで今年も素晴らしい体育祭が開催できました。これも皆の努力の結晶です。本当にお疲れ様」
さすがに疲れが残っているため、総括の場、と言い表しているがここではあまり具体的な話はしない。
今後の予定の確認が主であったりする。
これも綾が簡単にまとめ、生徒会もその場で解散となる。
「それじゃひとまずゆっくり休んで、また明日からゆっくりで構わないから、反省点とかを纏めていきましょう」
「はい、お疲れさまです!」
詩織の元気な返事を合図にしていたかの如く、皆荷物を手にしだすが、まだ、やらなければならないことが残っている。
そう、櫛夜と、綾と、弥々には。
特に目線による示し合わせも無く、当然言葉のやり取りも無く。
しかし三名は自然と引き寄せられるように、その屋上へとやってきた。
ここは二号館の屋上、綾文弥々、第一次告白の場である。
既にほとんどの生徒は下校済みであり、学校には静寂が流れている。
不思議な色に染まる夕日を見つめながら、しばらく言葉を発さなかった三人であるが、ようやくと綾が口を開いた。
「今日、光瀬くんに告白されたわ」
話し始めても綾は櫛夜と弥々の方を見ない。
さほど高くもない落下防止用のフェンスに指をかけたまま、言葉を継ぐ。
「それに、優芽ちゃんにも、複雑な感情をぶつけられた」
だから櫛夜も、綾の方は、見ない。
綾と三人分ほど距離を空けて、綾を真似てかフェンス越しに校庭を見下ろす。
「はぁ。それは、良かったです」
互いに目線を合わせない櫛夜と綾とは対照的に、一歩引いた弥々はそんな二人の背中をじっと見つめる。
慈愛に満ちた表情で、そっと包み込むようにして。
弥々は、何も言わないままだ。
「良かった、のかしら」
「自分で決めた道でしょう。自分で選んだ道でしょう。なら、良いんじゃないですかね」
「やっぱり櫛咲くんが全部、仕組んだのかしら?」
「俺は、俺達は、何もしていません。いえ、何も、出来なかった。ただ、それは間違っているって、何が正しくて誰がどんな気持ちを抱いているかも知らないけれど、その選択は間違っているって、そう突きつけることしか、出来なかったです」
「……そう、よね」
綾は納得の言葉を返す。
満足気な感情が混じっているようで、どこか虚無感も感じさせる。
ただそれだけで、櫛夜も綾の心象を汲み取る。
「どう、でしたか?」
「あんまりにも真剣だったから。正直、嬉しくて、とても辛かったわ」
「俺の仕業だと思って流されてしまうのが唯一怖かったので、それなら良かったです」
「良かったのかしらね、本当に」
同じ問いを繰り返す綾に。
同じ答えしか持たない櫛夜は。
「良いんじゃないですかね」
やはり同じ答えを返す。
同じやり取りを繰り返す二人を、全く同じように弥々は無言で見守る。
「そしたらもしかして、たまちゃんは櫛咲くんに告白したのかしら?」
「……ええ、そうですね。告白、されました。っていうか、玉川のこと思い出したんですか?」
「初めから覚えてたわよ。櫛咲くんと違って」
「でもいつだか初めましてみたいに挨拶してましたよね」
「だって、覚えてないんだと思ってたからね。実際櫛咲くんは忘れてたし。たまちゃんも、覚えている風じゃなかったから」
「全く、反論のしようがないです」
綾は小さな頃のことを覚えている。
櫛夜と遊んだことも、珠子と遊んだことも。
忘れてやいない。
忘れたことがない。
その理由は、これ以上ないほどに簡単で明白で。
言うまでもないことなのかもしれない。
それはきっと、珠子が櫛夜や綾、弥々のことをよく覚えていた理由と全く同じだろうから。
「私はね、あのときからずっと変わらず、櫛咲くんのことが好きなの」
ずっと好きだった。
だから、忘れたことはない。
「たぶん、たまちゃんも、同じ事を言ったんじゃないかしら?」
「そうですね、同じ事を言われました」
今朝、三つの物語が幕を閉じた。
もしくは、三つの物語が始まった。
光瀬光。
夢叶優芽。
そして玉川珠子。
その三人が今回の事件の裏に隠れていることに気付いた櫛夜は、計画を立てたのだ。
計画、といっても、ただ、間違っていることを三人に認めさせるだけ、だが。
本来その役割を一人で担おうとした櫛夜であったが、奏音と弥々がそれぞれ一人ずつ担当したので、結果的に櫛夜は光にのみ、その話をしている。
櫛夜は光を責めた。
奏音は優芽を責めた。
弥々は珠子を責めた。
それらは結果、櫛夜達からすれば上手くいった。
それが本当に、正しいことだったのかどうかは、今の櫛夜にはわからない。
だが、自分自身で自分自身の進むべき道を決めた三人はすぐに行動に移した。
光は、改めて、本当の気持ちから綾に告白をした。
そして、振られた。
優芽は、自身に抱えた複雑で難しい感情の全てを綾にぶつけた。
そして、振られた。
珠子は、繰り返す時間の中で、初めて櫛夜に告白した。
そして、振られた。
体育祭という魔力がそうさせたわけではない。
ただ、今日のうちに全てを片付けたかったのだろう。
「覚えてる? 一緒にどんなことしたのか」
「正直な話をするならば、ほとんど覚えてはいません」
「色々なことをしたわよ。今から考えれば、どうしてあんなことに夢中になっていたんだろう、とか言っちゃうくらいには、色々」
「その色々の中で、俺は綾文会長のことを、たぶん好きになったんでしょうね」
「好きだったんだ?」
「好きでしたよ。だからこそ、忘れたんです」
小さな頃、櫛咲櫛夜は共に公園で遊ぶ綾文綾のことが好きだった。
それは子どもなりの感情だったのだろう。
けれど、想いの強さに年齢は関係ない。
小さな頃の記憶は薄れ、当時の感情を今再現することは出来ないけれど。
人間なんてその時その時を生きるので必死なのだ。
当時好きだったのであれば、それはきっと当時の本気なのだろう。
自分のことくらい、認めてあげるべきだ。
「好きだったから、急にいなくなることを告げられて、勝手にジャンケンをさせられて、負けて、そして全部を失ったと思ったんです」
「全部かぁ。それは辛い思いをさせちゃったね」
「まぁいいですよ。辛かったのは今の俺じゃない」
「酷い事をさらっと言うなぁ櫛咲くんは」
「とにかく、それで、好きだった人がいなくなって、俺は人間をあまり信用しなくなった。人と積極的に関わろうとしなくなった」
「そうね、生徒会に入る前はそうだった。でも根っこの部分は変わっていないように見えたわ」
「綾文会長はもう一年前、俺が幸魂高校に入学して割とすぐから、俺がいることに気付いていたんですかね」
「というか、ね。私が高校入学と同時にこっちに戻ってきたからね。それからずっと、櫛咲くんのことは見てきたんだよ」
「そうだったんですか」
「そうよ。ずっとずっと、櫛咲くんのことを見ていた……」
綾は妙な間をとった。
それに合わせて、櫛夜は何となく深呼吸をする。
深く息を吸って、どこまでも広がる世界へと吐き出す。
そして、綾に見えないように、勘付かれない程度に全身に力を入れる。
きっと、次に綾は、その心を全力でぶつけてくるだろう。
「櫛咲くん。私は櫛咲くんのことが、ずっと好きだった」
「小さな頃は、どこまでも無邪気で元気な櫛咲くんに、憧れていた」
「引っ越さなければならないと聞いて、嫌で嫌で。それでも伝えないわけにはいかないと思って」
「そしたら櫛咲くんが、私の事引き止めてくれて」
「わかるかしら? 私ね、思わず嬉しくなっちゃったんだよ。今から会えなくなるのに」
「櫛咲くんが、自分の事を大事に思ってくれてるんだ。なんて」
「それで、いじわるして、出来もしない約束をして。でも、あの時は本当にジャンケンで負けたら意地でも残ってやる、なんて思っていたのよ?」
「……勿論それでも悪いことをしたわね。結果的にはそれで櫛咲くんを縛りつけてしまったようだし」
「それで、櫛咲くんのいない生活が始まって。慌しく過ぎる日々の記憶に埋もれていくのかな、それは寂しいな、なんて思いながら生きていたのだけれど」
「全然、ね。忘れられないのよ」
「忘れられなかった」
「なんでかはわからない、理由なんてないのかもしれない」
「良いことなのか、悪いことなのかも、判別がつかない」
「新しい人間関係は十分に築けていたし」
「まぁ、多少は男の子から告白される機会もあったし」
「でも、私は櫛咲くんことを忘れられなかった」
「結局こっちにまた引っ越してくることが決まって、今度は逆に弥々なんかが今更戻りたくもない、とか嫌がっていたようにも思うけど、私はとてもとても嬉しくて」
「でも、同時に、すごく怖かった」
「櫛咲くんは、まだ今もそこにいてくれるのかな」
「櫛咲くんは、変わってしまっていないかな」
「櫛咲くんに、変わってしまったと思われないかな」
「櫛咲くんに、別の大切な人がいたりしないかな」
「櫛咲くんは、私の事を覚えているのかな」
「久しぶりに櫛咲くんの姿を見つけたときはそれはもう嬉々として話しかけようかと思ったんだけど、やっぱり私は怖くて、駄目だった」
「同じ高校に入学してきたことがわかって。だから、櫛咲くんから話しかけてくれることを、私は一年間待ってたんだよ?」
「私は生徒会役員として、ことあるごとに壇上に立っていたから。きっと覚えていてくれたらなら、私に当時の面影があるのなら、櫛咲くんが話しかけてくれるはずだって」
「でも結果から言えば、櫛咲くんは当時の事を忘れていたのよね」
「全部自業自得だから、それに関してどうこう言うつもりもないんだけど」
「でも一つ、櫛咲くんの姿を追っている内に気付いたことがあった」
「それは、櫛咲くんがいつもいつもジャンケンに勝っているっていうこと」
「理屈じゃない、私はそれが悲しい能力だってことに気付いていたよ」
「だって、あの時私に勝てなかったことを、心のどこかで悔やんでいてくれたんでしょう?」
「勝ったとしても私がいなくなってしまうことはきっと、わかっていたはずなのに」
「私はそれに気付いて、嬉しかったよ。例え櫛咲くんが忘れてしまっていたとしても、どこかに私のことを残してくれている」
「人とあまり関わらないようにして、なんだか暗い雰囲気を出していても、ちゃんとあの頃の櫛咲くんなのはすぐに気付けたの」
「だって、櫛咲くんは、人を傷つけないようにしていた」
「それが理由で、人を自分から遠ざけていた」
「なら、私が取るべき行動は一つよね」
「別に過去のことなんてどうでもいい」
「今の私を、新たに知ってもらうこと。そのために、櫛咲くんがきっと、過去の私を思って閉ざしたその心を、無理やりでも開かせること」
「だから私はあの時、どきどきしながらも、思わせぶりな言動で不思議な雰囲気たっぷりに、よくある青春小説の冒頭のように、さもあなたの秘密を握っていますよって感じに話しかけたの」
「あなた、持ってるでしょ」
「なんて、謎めいた言葉で櫛咲くんの興味を引くようにね」
「まぁ、あんまり利口な作戦ではなかったのかもしれないけどね。あの時の櫛咲くんの顔、ひどかったわよ? まるで人を殺しそうな目でこっちを見てくるんだもの」
「こっちは必死に演技してるっていうのに」
「……これも言いがかりね。ごめんなさい」
「結果的には櫛咲くんは生徒会に入ったわけだし、それはいいことにしてしまうけれど」
「……だから、どこで間違えたんでしょうね」
「いえ間違えたなんて失礼よね。今このときがこの瞬間が、間違いだなんて誰にも言わせたくない。言って欲しくない」
「でも、思わずにはいられないのよ」
「今の私は、ぼんやり、よりは少し鮮明に、過去の時間の事を思い出している」
「過去に、櫛咲くんと幸せに過ごしたときを覚えている」
「感じている」
「だから、どうしても、どうしても、思わずには、いられないのよ」
「どうして?」
「どうして、全部が解決した時間に限って、櫛咲くんは私の事を選んでくれないのかなって」
「光瀬くんと優芽ちゃんと、たまちゃんが私と櫛咲くんの仲をばれない程度に裂こうと動いていたとしたって」
「たったそれだけで引き裂かれちゃうような仲じゃ、なかった、はずなのに」
「特に光瀬くんと優芽ちゃんかな。二人が本来弥々に使うべき時間を、櫛咲くんに割くことで、櫛咲くんと弥々が一緒になる時間が長くなって」
「それで、今までよりもずっと早く弥々は櫛咲くんのことを好きになった」
「それが今回だけの話なのか、今までの時間の積み重ねもあってのことなのか。それは私にはわからないし、きっと弥々にもわからないのでしょうけど」
「弥々は私の想いに気づく前に、櫛咲くんのことを好きになった。それで、手に入れてしまった」
「櫛咲くんの心を」
「一度手にしてしまえば、他の人間には絶対に手に入らない。得ようとして得られるものじゃない、それを」
「わ、たしは、ね」
「嫌だったんだよ」
「嫌だった」
「弥々のことは勿論好き。好きなんてものじゃない、本当に、家族として、姉として、こんなに可愛い妹がいることを誇りに思うし自慢に思うし、そんな可愛い妹の姉であることが嬉しくて堪らない」
「だから弥々の気持ちを尊重したくって、でも」
「すぐに割り切れる想いじゃなかったよ、これは」
「だって、十年以上積み上げてきた想いなんだよ!」
「優芽ちゃんの力でループしてきたこの時間よりもずっとずぅっと長い時間なんだよ!」
「どうしようもないほど、ずっとずっと、櫛咲くんのことを想ってきたんだよ!」
「それも、繰り返してきた時間の中で、櫛咲くんは私を選んでくれたんだよ!?」
「なのに、どうして!?」
「どうして、今は、今だけは、私を選んでくれないのかな!?」
「過去の私ばっかり、ずるいよ!!」
「皆幸せを掴んで、櫛咲くんの横を歩けて、ずるいよ!!」
「私は、私はっ、過去あったかもしれない時間にいる私なんかよりも!!」
「今の私を選んで欲しいよっ!!!」
「……ねぇ、櫛咲くん、弥々、ひどいことを、言うよ?」
「私ね、櫛咲くんのことが、大好きなんだ」
「私の可愛くて素敵で愛おしい自慢の妹じゃない、可愛くもないし心が荒んでいるし何の取り柄もない私だけど」
「でも、弥々よりも櫛咲くんを愛してあげる」
「弥々よりも櫛咲くんを大切にしてあげる」
「弥々よりも櫛咲くんを守ってあげる」
「弥々よりも櫛咲くんを好きでいてあげる」
「だから、弥々なんかより」
「私を選んで欲しい」
「私と、お付き合いしてくれないかな。櫛咲櫛夜くん」
弥々なんかより私を選んで欲しい、と言った綾は。
ひどく辛そうな顔をしていた。
弥々の気持ちと自分の気持ちとの狭間で、悩み続けて、きっと、それでもそう言わずにはいられなかったのだろう。
過去の、櫛咲櫛夜と想いを通じ合わせた自分がいるからこそ、今の自分が許せないのだろう。
認めたくないのだろう。
櫛夜は、その言葉には、応えなくてはならない。
きちんと。
真摯に。
「綾文綾、さん」
その呼び名は、会長でも先輩でもない、一人の女性として、しっかりと呼称する。
そして次の言葉を継ごうとした、そのときだ。
櫛夜の返事を待たず、綾が不意にフェンスをよじ登った。
フェンス、とは勿論ここ幸魂高校二号館屋上に設置されている落下防止用のフェンスであり、落下防止用とは言うものの、そもそもこの屋上への立ち入りは本来認められておらずまたその方法も存在しないため、それほど高いフェンスではない。
若干反り返っている部分もあるが、運動神経の良い綾が苦戦するほどの角度もついてはいない。
突然の事に櫛夜も弥々も身動きがとれまい、と踏んだ綾の行動は狙い通りか、成功する。
あっという間にフェンスを乗り越え、屋上の縁に立ち、眼下に広がる暗い地面を見下ろす。
きっと普段は見慣れたグラウンドも、今だけは殺意を持って綾を待っていることだろう。
フェンスを越えただけだというのに、吹き抜ける風がやけに強い。
「綾文っ」
「いいの。いいんだ。答えはきっと、決まっているから」
櫛夜の言葉を待たずに綾は返事をする。
綾の口調はやけに平坦だ。
まるで機械のように。
まるで心などないように。
「きっと振られてしまうんでしょう。聞きたくない」
「それは」
「わかってる! 私の我が儘、でも、でも! いいじゃない。櫛咲くんから決定的な言葉を聞かなければ、まだ返事を妄想していられる。その余地がある。その余地を残したまま、私は死ねる」
「お、い」
「このまま落ちて死ぬのもいいし、或いは、優芽ちゃんがまた時間を巻き戻してくれてもいい。今度はきっと、私を選んでくれて、それでいて友莉ちゃんや皆の問題を解決すればいい」
「こっちの、話、を」
こっちの話?
聞きたくないから飛ぶんだよ。
そんなことを、思いながら。
綾は。
その地面を、蹴りだした。
視界が傾き始める。
身体が浮遊感に襲われる。
死の直前には走馬灯が流れるというが。
今の綾の胸に込み上げてくるのは。
たった一つの感情。
主に、弥々に対して。
(ごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんね)
果たしてそれが、何に対して謝っているのか、綾自身にももはやわからないが。
謝りたいな、とただただ思うのであった。
これから真っ直ぐ地面に落ちていくというのに、そんな申し訳ない気持ちからか、綾は後ろを振り返る。
弥々と目が合う。
弥々もまた、自分の事を、どこまでも真っ直ぐに見ていた。
その瞳には、寂しさとか辛さとか、どうしようもない感情が浮かんでいるのがわかる。
(そんな顔、しないでよ。せっかく可愛いのに、勿体無いよ)
勿体無いことをさせているのは自分だ。
そんなことは綾にもわかっている。
そのまま身体を重力に任せようとすると。
声が聞こえた。
やたらと遠くに聞こえるような、近くから響いてくるような。
懐かしいような、聞きなれたような。
そんな声が。
綾に向けられる。
「ジャーン、ケーン」
(櫛咲、くんか)
この後に及んでジャンケンとは。
全く彼らしいと思う。
どうしてそんなことを言っているのだろう。
あぁ、だが考えが纏まらない。
うまく思考が出来ない。
けれど。
「ポン!!!」
という櫛夜の言葉と同時に。
世界が止まる。
時間の流れが静止する。
ギシ、ギシ、という音だけが響き渡る。
(ギシ、ギシ?)
なんの音だ、とゆっくりと見渡すと、どうやら鳴っているのはフェンスであり。
どうやらその音を鳴らしているのは自分であり。
さらに詳しく言えばフェンスを掴んだ自分の腕がそこにはあり。
綾文綾は屋上からその身を投げ出してはいなかった。
「……?」
確かに自分はこの屋上から飛んだはずなのに、と綾が混乱していると、櫛夜が息を荒げたまま、どかっとその場に座り込んだ。
「……え、あれ?」
綾は自分の目を疑い、自分の身体を疑う。
飛ぼうとして蹴り出したはずの自分の身体だったが、その手はフェンスをがっちりと掴んでいる。
おかげで、そもそも力強く蹴り出したわけでもなく、ほとんど身体を傾けただけだった綾は飛び上がることもほとんどなくしっかりと屋上にその身を置いていた。
問題は、綾は本気で自殺を図ったのに、どうして手がフェンスを掴んでいるのか、ということだ。
深層心理では、この時間を生きていたいと願ったのか。
だがその答えは、すぐに櫛夜が話す。
「もしかしたら綾文さんはそうするんじゃないかなって、思ってました」
その人称はやはり、会長に向けてではなく、一人の女性に対するものだ。
ここには弥々もいるため、綾文さんだけでは実はどちらを言い表しているのかわからないのだが、それでも『綾さん』と呼ばないのは。
そう呼べない気がしたからなのか。
それとも。
「だから、もしもの時のために、弥々と打ち合わせておいたんです」
「……弥々と?」
櫛夜と弥々は当然この展開を予想していた。
つまり、この時間を、綾文綾が認めない可能性が、十分にあると踏んでいた。
それを弱さだとは、櫛夜も弥々も思わなかった。
光や優芽や珠子は、現状ないものを得るために過ちを繰り返した。
正すためではなく、間違えるために時間を繰り返した。
しかし、綾は。
正すために時間を繰り返すはずだ。
本来綾文綾はその長年の想いを遂げて櫛咲櫛夜と互いに想いあえる関係になったはずなのだ。
それを訳も分からぬままに改変されて、改造されて、いいはずがない。
認められる方がどうかしている。
だから綾文綾には、その権利が確かにあるはずだった。
だが。
だがそれでも。
櫛夜は、弥々は。
それすら、良しとするわけにはいかなかった。
仮に綾が時間を正すとして、その方法は一つしかない。
時間を巻き戻す能力を持つのは優芽だけなのだから、彼女がそれを行使するしかない。
綾がそこまでの事実を知っているのか否かは不明だったが、現実問題、優芽の能力は、『巻き戻すべき事故? 事件』がなければならない。
とすれば、綾が取れる選択肢は一つ。
「綾文さんが自身を犠牲に、巻き戻すべき事件を起こせば確かに優芽は、まぁ巻き戻すでしょうね」
「それで、私がここから飛び降りると?」
「はい。飛び降りる理由と、目撃者が必要でしょうし」
「策士ね」
「いいえ、別に」
「それで、これはどういうことかしら? どうして私はまだ、ここにいるのかしら?」
「そうですね。まぁ綾文さんが、知らないことが二つあると、思ったので」
「二つ?」
「なに、ヒントは他でもない、綾文さんがくれたんですよ」
櫛夜はそこでようやくと立ち上がり、綾の方を向く。
歩み寄ると、よいしょ、と言いながらフェンスをよじ登り、そして綾と同じ場所に立つ。
それまでずっと弥々に向けていた視線を、綾はようやく櫛夜へと移す。
その弥々は、未だこの屋上に来てから一言も発していない。
きっと、今は何も話す気がないのだろう。
その行く末をただ、見守っている。
「弥々は、綾文さんの能力のことを知りませんでしたね」
「……えぇ、それが?」
「同じように弥々も、綾文さんに自分の能力のことを話してなかったんです」
「弥々に、能力……? あっ」
「はい、俺も危うく忘れかけていましたが、俺は本人からちゃんと聞いていましたから」
そう、弥々にはある能力があった。
そう本人が言っていたではないか。
忘れていいはずがない。
なにせ、それを教えられたのはこの場所なのだから。
「一日に一度、誰かと目を合わせられる能力」
それが、弥々の能力。
誰か特定の相手と目を合わせる力。
これもまた、能力と呼んでいいものなのかどうか、かなり疑わしいものだが。
たった今それが活用されたのだから、貴重な能力であると櫛夜としてはそう評価を下さざるを得ない。
「だからまず、綾文さんは弥々と目が合った。まぁつまり、俺と弥々がいる方向を見たわけです」
「……なら、この手は」
「決まっているでしょう。俺の能力です」
櫛咲櫛夜の能力。
一日に一度、ジャンケンに勝てる能力。
櫛夜は考えた。
綾文綾が、屋上から飛び降りようとしたとして。
それを止める手段があるかどうか。
だが、それこそ時間遡行でも出来ない限りは物理的に止める他ない。
ならばやはり綾がフェンスを超えようとした時に一緒に駆け上がるべきか。
櫛夜は、それでは恐らく駄目だと踏んだ。
いかに綾が文武両道で高い運動神経を有しているとしても、それが男である櫛夜に対して露骨に差が出るとは思えない。
当然力も櫛夜の方が強いはずである。失敗する要因があまり浮かばない。
浮かばないからこそ、すぐに思いつく作戦への対抗策を、綾文綾が用意していないはずがないと櫛夜は考えたのだ。
それは実際事実であったわけだが、とにかく櫛夜は綾の想定出来ない方法で止めて。
かつ、きちんと話し合えるだけの猶予を得ることが必要条件だと考え、考え抜き、そしてある方法に行き当たる。
と、いうかそれしか他に使えるものがなかった。
ジャンケンに勝てる能力を、使うしかない。
そこで櫛夜は自身の能力の具体的な制約条件などを検証することになるのだが。
そこでわかったのは。
「俺の能力は、『一日に一度、二人以上その場にいる状態でのジャンケンに必ず勝つ能力』ではなく、『一日に一度、自分を除く二人以上が自分の存在を視界に収めた状況下において、ジャンケンポンの掛け声と共に、自分の出した手に負けるような手を相手に出させる能力』でした」
たっぷりと、櫛夜の発言をなぞり、そして綾は得心する。
つまりは。
「ジャンケンに勝つこと、じゃなく、もし相手にその気がなくとも、視認さえしていればジャンケンを行わせるのね」
「そうです。ジャンケンと聞けばその気がなくとも思わず手を出してしまうことってありますよね。あれを引き起こす能力、というのが正しかった」
「それで? 私を屋上から飛ばさないために? 弥々の能力で私と弥々ちゃんの目を合わせて結果櫛咲くんを視界に入れるようにして? ジャンケンを仕掛けて、櫛咲くんがパーを出すことで? 私にグーを出させた、と?」
「その通りですね。杜撰にも程が有る、あの綾文綾に対してどころか誰に対しても通用しない気がする、ひどい作戦です」
「私が勢いよく飛び出していたら間に合わなかったわよね。私がフェンスから直接飛び降りたらやっぱり上手くいかなかったわよね」
「でも、成功しました。信じていたんですよ」
櫛夜がこの作戦を弥々に伝えたときも、猛反対された。
それでも、櫛夜は信じた。
綾文綾は、本気で飛ぶはずがない、と。
心のどこかで、屋上から落ちていく自分を助けて欲しいと願っているはずだ、と。
信じ、賭けた。
本心がどこにあるのかはわからない。
こんな時間は嫌だと思うのかもしれない。
でもきっと、今だって、かけがえのない時間であると認めているはずだ。
そうでなければ。
過去の櫛夜が、過去の綾を、好きになるとは思えない。
そんな綾だからこそ、惹かれたはずなのだ。
櫛夜は過去の自分と、今の綾を信じたのである。
「綾文綾さん、告白してくれてありがとうございます。すごい嬉しいし、きっと上手くやっていけると思う」
櫛夜は、終わらせる。
こんな悲しい時間の連鎖を。
「でも、綾文さんの気持ちには応えられない。今、好きな人がいるんです。大切だと思える人がいるんです」
それが今だけのまやかしでも。
大事なのは今なのだと。
「俺、綾文弥々さんの事が、好きなんです。好きで好きで、いつも彼女のことを考えてしまうし、いつも自分のことを考えていて欲しいなんて思ってしまう」
過去の自分を否定する気はない。
けれど、それは、過去の自分であって。
「俺は、今ここにある櫛咲櫛夜は、過去の自分を忘れて。過去の想い人を忘れて。人付き合いを避けて。時間の繰り返しも結局解決は人任せで。色んな人に『間違っている』と叩きつけただけだけど」
今の自分の選択はとっくに。
一つに決まっている。
「こんな自分を認めてくれる弥々に。じゃなく。認められたい弥々に、側にいて欲しい」
その答えは。
たぶん。
伝わるだろう。
「そっ……か。駄目、かぁ……」
綾の弱々しい声。
震え、掠れ、嗚咽が混じる。
「あーあ。振られちゃった……」
言って、綾はゆっくり、ゆっくりフェンスをよじ登る。
まるで櫛夜に背を向けるように。
登りきると大胆に屋上の内側へと綾は跳ね、綺麗に着地する。
着地して、すぐにその場に崩れ落ちた。
そこまで確認して、櫛夜もフェンスの内側へと戻る。
綾の心の声は、悲痛な叫びは、櫛夜の胸を突き刺す。
「ずっと、好きで。つい、この間まで、の、さ。前の時間までは、私、私を、選んで、くれたのに、なぁ」
櫛夜は、そんな綾にかける言葉が見つからない。
でも、このまま放っておくわけにも、たぶんいかないだろう。
彼女をこんなにしたのは、間違いなく自分なのだ。
「光瀬先輩も、優芽も、玉川も、自分の道を選びました。だから俺も、ちゃんと……」
違う。
こうじゃない。
こんなことが言いたいわけじゃない。
櫛夜は言葉を切る。
綾を責めたいわけではないのだ。
言い訳がしたいわけでもないのだ。
「俺はただ、今の、この気持ちを」
こうでもない。
今が大事?
そんなことは誰だって知っている。
それでも人は苦悩するのだ。
それでも自分を見て欲しいから。
誰も彼もが間違えて。
誰も彼もが辛さを抱える。
伝えたいことがきっとたくさんあって。
でも言うべき言葉が見つからない。
言葉にした瞬間に、伝えたいことから離れてしまう。
言葉にしたら、また間違ってしまう。
櫛夜がそれでも言葉を探していると、弥々がゆっくりと近づいてきた。
綾の前に立ち、そっと。
少しでも勢いをつけてしまえば壊れてしまうかのように。
柔らかく。
座り、俯く綾の上半身を優しく、初めは触れるだけで、本当に少しずつ、抱き寄せた。
抱き寄せて、綾の頭を、ぽん、ぽん、と手を添えながら撫でていく。
「弥、々……」
綾がそんな妹を見上げてみると、弥々は綾よりもよっぽど泣き腫らした跡が残っており、この場にいる誰よりも優しい表情をしている。
涙を見せることが恥ずかしいだなんて。
全く頭にないように。
真っ直ぐ真っ直ぐ、綾を見て。
ただ頭を撫でる。
それだけ。
行為としては、たったそれだけだというのに。
櫛夜は思わず感動してしまう。
(俺は、言葉を選ぶばかりで、なのに)
今の綾に、何かを言いたくて。
何かを伝えたくて。
そのための言葉を捜していた。
でもどの言葉も言おうとすれば間違っているような気がして。
だというのに。
弥々は言葉を必要とせず。
言葉なんか使わずに。
ただ行為と表情だけで。
その心を全部、伝えてしまった。
どうして、言葉も使わずにそんなことが出来るのだろう。
(凄いな、弥々は)
確かにそうだ。
言葉にすることで失敗するなら。
言葉にしないで伝えればいいのだ。
それが伝わる関係なのであればきっと。
その想いは届くはずなのだから。
「弥々、大丈夫だよ。お姉ちゃんは、ちゃんと、ここにいるから。ごめん、ごめんね……?」
「……」
「お姉ちゃんね、弥々と同じ人を好きになっちゃったんだ。でも、振られちゃった」
「……」
「その人のことがずっと好きで、ずっとずっと好きで。今すぐに諦めろなんて言われても難しいと思う」
「……」
「今の私にはね、これが正しいだなんて思えない。これを正しいだなんて言いたくない」
「……」
「世界のどこかに、幸せになる可能性があるなら、その人と一緒にいられるなら、なんだってしたいと思ってる」
「……」
「でも、でもね」
「……」
「それで弥々が悲しむ姿は、見たくないよ」
「……」
「私はね、櫛咲くんのことが大好きだけど」
「……」
「弥々のことだって、ちゃんと愛してるんだよ?」
「……」
「私、弥々のお姉ちゃんなんだから」
「……」
「お姉ちゃんはね、妹に見栄を張りたいんだよ」
「……」
「だからたまに、それで、間違えちゃうことも、上手くいかなくなっちゃうこともあるんだと思う」
「……」
「その時にまた、こうしてくれる? 駄目だなぁ綾お姉ちゃんはって、抱きしめてくれる?」
「……」
「うん。それがあるなら、頑張れるよ」
「……」
綾の言葉に、弥々は大きく、何度も頷く。
そして、そのまま、櫛夜の方を見つめる。
櫛夜は、だから。
ようやくこの言葉を言えるのだ。
これまで、自分達は様々な問題を抱えてきた。
それらを全て、曲がりなりにも解決して、何が正しいのか、何が間違っているのか、そんなことも分からぬままに進んできた。
だが、それでも進んでこれたのは、きっとそうあるべきだと信じる道があってこそだ。
櫛夜は、弥々は、そう信じて此処まで来たはずだ。
今、誰を想っているのか。
それ以外に重要なことは無い。
今の想いが成就しないなら、ちゃんと振られるべきだし。
今の想いが成就するように、ちゃんと告白するべきだ。
だから弥々は櫛夜と別れた。
自分達の想い以外のものが介在した付き合いなんて、二人には要らなかった。
誰かが操作した恋愛なんて、求めていない。
そんな誰かの間違った願いを全部否定して。
その上でもう一度、きちんと好き合いたい。
櫛夜は今度こそ間違えないために。
その言葉を口にする。
「俺、綾文、弥々のことが好きだ。時間とか訳の分からない何かはどうでもいい。今の俺は今の弥々を見ていたいし、今の俺を今の弥々に見ていて欲しい。だから俺と、付き合ってください」
櫛夜の、今の櫛咲櫛夜の精一杯の言葉。
その本心を全てぶつける。
弥々は綾の頭を撫でながら。
櫛夜の全力に、しっかりと応えた。
「――――」
世界は、朱に燃え上がり。
熱く。
真実と嘘を乗せて広がっていく。




