別れましょう
時はややあっと進み、週末。
日曜日。
櫛夜は弥々とデートに来ていた。
はずだった。
「……」
「ふん! ふん! ふーふふーふん、ふふんふふふふふーふふーふん」
「……」
「ふん! ふん! ふーふふーふん、ふふんふふふふふーふふーふん」
「……?」
「ふーふーふーふーふーふーふーふーふーふふっふーん」
「あー、あの、弥々さん?」
「ふーふーふーん……んん、どうかしましたか? 櫛夜先輩」
「あー、いくらか聞きたいことがあるんだが」
「なんでしょう?」
「まずは、どうして我が家にいるんだ?」
「それは私が、櫛夜先輩のお宅に伺ったからですね」
「おぅ。まぁ、納得はしてないが理解はした。じゃあ、もう一つ」
「はい」
「なんで鼻歌、某オーラパワーの主題歌なんだ?」
「え? 歴代一かっこいいと名高い名曲ですよね?」
「それは否定しないが……いや俺は某五つ星とか某レスキューも捨てがたいと思うが……いやなんで知ってんだ」
「名曲は自然と舞い込むものです」
「お、おぅ。じゃあもうそれはいいや……」
櫛夜は弥々とデートに来たつもりであった。
土曜日、なんやかんやと一週間駆け抜けた櫛夜は生徒会の仕事に疲れた重たい体を引きずるような思いで帰路に着いていた。
実際には生徒会の面々はおよそまとまって帰っていたわけだが。
みもりと詩織の三人で、櫛夜の後ろを歩いていた弥々はふと櫛夜の隣に来て、櫛夜の耳に背伸びをして顔を近づけると、櫛夜の耳に吐息混じりに呟いた。
内容は単純明快。
「明日デートしましょう。十時に枸杞駅集合。遅れたら許しませんよ」
そんなお誘いだ。
一週間前に誘われたのと全く同じ時間と場所である。
櫛夜は櫛夜なりに、可愛い後輩であり彼女である弥々の気持ちに応えられるように行きたい場所をシミュレートするなど、比較的真面目に考えながら今回のデートに臨んだ。
そうして待ち合わせ場所に向かうと数分もしないうちに弥々も来て、弥々が行きたい所があるというので櫛夜は行く先をひとまず弥々の赴くままに任せた。
任せたのだが。
その結果が。
まさかの櫛咲宅であり。
いやいやいや、急に家に来られても困る、そもそも今日は姉がいる、などと普通に普通の理由を並べて断ろうとしていたのだが。
丁度買い物に出かけようとした櫛夜の姉がそんな二人を発見、買い物にそのまま連行した。
三人仲良く、とはいかず、楽しげな姉と弥々を見ながら陰鬱に近いような謎な感情を胸に持ちながら櫛夜は後ろに付き従い、荷物持ちとしての役割を果たしていた。
長々と二人の買い物に付き添う、既にその時点で櫛夜の心肺は宜しくない状態であったが。
弥々及び姉の言葉に嘘偽りはないようで、買い物を終えると本当に弥々は櫛咲家に上がってきた。
元々櫛夜の姉は料理を不得手としており、適当に冷凍のパスタでも買おうか、と大学生の女子らしからぬ(櫛夜としてはもう少し頑張って頂きたいところだ)行動を想定していたものの、弥々と櫛夜が家に来るということでしっかりとした食材を購入している。
つまり料理するのは姉ではなく櫛夜なわけだが、そこに弥々も名乗り出た。
「私料理くらい普通に出来ますって」
と堂々と話す弥々を見て、若干姉が悲しそうな表情になった気もするが、少なくとも一人で作るよりはいいか、と櫛夜は弥々と二人並んで小さなキッチンに立つのであった。
二人も並べばかなり手狭な櫛咲家のキッチンである、櫛夜と弥々は互いに肩や腕が触れ合う恋人的なイベントを幾らか消化しつつ、親子丼その他を緩く会話しながら作っていた。
その不思議な会話の一部が、某子供向け特撮ヒーローの主題歌に関するものだったわけだ。
櫛夜が『なんで知ってんだ』と聞いた理由として、弥々は綾と二人女姉妹なため、あまり少年向けの作品に触れる機会が少ないのではないかと考えたことが挙げられる。
尤も、弥々は櫛夜の隠した意味を特に解釈することなく返答している。
その答えも今の精神状態のせいなのか単に弥々の説明不足なのか、意味がわからなかった櫛夜はそれ以上突っ込むことはしていない。
これまたそう大きくはない、二人用のテーブルになんとか三人卓を囲むように座り、お昼ご飯にありつく。
なお、櫛夜と弥々が楽しげにご飯作りに興じている様を、櫛夜の姉はにやにやと、二人と同じくらい楽しそうに眺めていた。
「どうぞー、親子丼ですッ!」
「ありがとう。いただきます」
弥々が元気良く配膳し、そこからは行儀良く黙々と食べ始める。
「ごちそうさまでした」
「でしたッ」
「はぁ」
三者三様にまったりとご飯を平らげ、緩やかな倦怠に身を委ねる。
櫛夜が熱いお茶を用意し、それを啜りながら姉が改めて御礼を言う。
「ほんとおいしかったわ。ありがとうね、弥々ちゃん」
もはや当たり前のように名前呼びをしている姉に対して、弥々は少しだけ居住まいを正して挨拶をする。
「いえ、お気に召して良かったです。あの、改めてですが、私綾文弥々と言います」
「あら、ご丁寧にどうも。まさか櫛夜くんが女の子連れてくる日が来るなんてね」
横目ににやり、と嫌味ったらしく笑う姉に櫛夜は諧謔も何もなく、割と真剣に恐怖を交えて返す。
「いや、むしろ俺が連れられて来たんだが……弥々、なんで俺の家知ってるんだよ」
「いんたーねっとってこわいですよねー」
「……それならそれで、百歩譲って住所を丸々検索かけて場所がわかるのは良いとして、その住所はどうやって知ったんだよ」
「げんだいしゃかいってこわいですよねー」
「お転婆さんね」
「ですですッ」
(もう、突っ込みはやめよう)
胸中、櫛夜は女二人に勝てる道筋が一切見当たらないことを早々に悟り、気持ちを切り替える。
切り替え、ここから先の会話にはもう何も反応してやらんぞ、と決意を固める。
まぁ例によって例の如く、櫛夜のちっぽけな決意など、それこそ一少女である弥々からすれば微塵も硬度の無いものであり、あっと言う間に崩されるわけだが。
「でも、初めまして……じゃないですよね? お姉さん」
「あれ、やっぱり弥々ちゃんってあの時の弥々ちゃんだったんだ? 綾文弥々、なんて同姓同名珍しいなぁなんて思っていたんだけど」
初めまして。
じゃ、ない。
つまり、いつだか、どこかで。
出会っているということだ。
弥々と、姉が。
「え、どういうことだ弥々!?」
思わず取り乱す櫛夜に、弥々ははにかむ。
にこっ、と効果音を思い切りつけての笑顔に、櫛夜はひとまず平静さを取り戻す。
落ち着くためにわざとらしく茶を飲む。
およそその辺の茶葉から適当に淹れたものだが、意外と美味である。
特に、一息つきたい心情には程よい熱さが喉元を伝う。
そうしている間に、弥々からではなく、姉の方が解説を加えてくれた。
「あれ、覚えてない? 櫛夜くん小っちゃな頃によく、すぐそこの公園で女の子と遊んでたじゃない?」
「……女の子と、遊んでた?」
櫛夜が記憶を呼ぼうとする。
が、イメージが膨らまない。
てっきり弥々と姉がどこかで出会っていた、ということなのかと勝手に思っていた櫛夜であったが、どうやら姉の口ぶりから察するに、櫛夜自身にも会った経験があるのかもしれない。
「櫛夜くんは、ええと、小学校に入る前後くらいかな?」
「そんな小さな頃か……そうだなぁ」
小学校に入る前後。
五歳、六歳といったところか。
現在高校二年生である櫛夜にしてみれば、十年と少し前の話になる。
人の記憶というものは案外、でもなく当然、曖昧で時間の経過と共にどこまでも改ざんされ、失われていく。
櫛夜は記憶を探る。
近所の公園。
櫛咲家から徒歩十分弱。
遊具はシンプルに滑り台とブランコのみ、あとは砂場が用意されているだけの小さな公園だ。
確かに、よく遊んでいた記憶は、ある。
(ん……)
そういえば、と櫛夜は記憶を掘り返す。
「言われてみれば、誰かと一緒になって遊んでいた記憶があるような」
「私はなんだかよく覚えてるわ。とっても仲良かったもの。お姉ちゃんの綾ちゃんも元気にしているかしら?」
なるほど、どうやら本当に遊んでいたことがあるらしい、なんてことなく綾の名前が出てきた。
と、いうことは。
「俺、弥々とも綾文会長とも、会ったことがあるのか? 会ったどころか、遊んだことが」
今度はきちんと弥々が口を開く。
躊躇い気味に。
「そう、ですね」
なんで言わなかったんだ、などとは思わない。
何せ、櫛夜が覚えてはいなかったのだ。
久しぶりに会った相手が自分の事を覚えていなかったのであれば、わざわざ掘り返すようなことでもないだろう。
「まぁ、私はあんまりなんですけどね。綾お姉ちゃんはがっつり櫛夜先輩と遊んでましたね」
「そうなのか」
がっつり遊んでいる幼少期の綾文綾、という存在が脳内変換されない。
かつてはいたのかそのような魑魅魍魎、否、神妙な生命体が。
と、失礼極まりない思考をしている櫛夜に弥々は済まなそうに続ける。
「楽しそうに遊んでいる綾お姉ちゃんばかり覚えていて、正直櫛夜先輩の事は会うまで女の子だったっけなんて思ってました」
「性別まであやふやなのかよ」
それは弥々としても誠に話しかけづらかろう。
櫛夜は納得し、話を少し先に進める。
「でもちょっと納得がいったよ」
「あれ、もしかしてそういう素振り見せてましたか?」
「いや、素振りっていうか」
櫛夜は思い出す。
初めて綾に出会ったときの事を。
いや、初めてではないのだろう。
正しくは、高校に入ってから、初めて綾に声を掛けられたときの会話の事だ。
出会い頭にジャンケンに勝てることを、持ってる、などと大層な表現をしてきた綾だったが。
思い返せばその時、当然過去に会ったこと等忘却の彼方であった櫛夜は生徒会役員かなにかで見たことがあるだろうか程度の認識だったのに対して。
「こっちが自己紹介する前にさ、俺の名前フルネームで呼んでたんだよな」
「あー、それはそれは」
「あの後結局、綾文会長が未来視で俺を生徒会に引き込もうとしたのを知ったからてっきりその時か何かで名前を知ったのかと思ったが」
「んー、まぁ真偽は綾お姉ちゃんに確認しないと、ですけどね」
確かに、綾本人でなければわからないことも多々あるはずである。
仮に綾が櫛夜のことを覚えていたのであれば、一体どこまでが、以前から知っていた知識になるのであろうか。
十円玉をあの日のあのタイミングで櫛夜が落とすことは未来視でなければ難しいだろうが。
ひょっとすれば、櫛夜がジャンケンに勝てることも、未来視などなくても知っていたのかもしれない。
だが、しかし。
櫛夜にとってはこの事実は割と有難いものであった。
足りない理論の穴を埋めるような。
パズルの最後の一ピースをはめるような。
頭の中で組み立てられた論理という名の回路がきちんと繋がる。
勿論それを表に出すことはしない。
弥々と櫛夜の話をよく頷きながら聞いていた姉がしみじみ語る。
「懐かしいわねぇ。ところで今ってどの辺りに住んでるの? こっちに戻って来ているの?」
「はい、実は一昨年には戻ってきていまして。今は少し離れてますが七島駅あたりに住んでます」
「あら、でも結構近いんだ。じゃあまた遊べるわね」
「はいッ、是非是非ッ」
その会話によくわからない部分があった櫛夜は二人共に向けて疑問を口にする。
「あれ、どこかに引っ越してたのか弥々って」
なんてことのない櫛夜の質問に、姉が妙に複雑そうな顔をした。
弥々はしかし元気良く、いつも通りに応える。
「はい。お父さんの転勤の都合で、しばらくここを離れていたんです」
「そうなのか。うちも今両親が二人とも別々に海外に行ってるから、二人暮らししてるんだ」
「あ、そうなんですね。まぁ当時私も綾お姉ちゃんも小さかったことですしね」
確かに、現在高校と大学にそれぞれ通う櫛夜とその姉はまだしも、まさか小学一年生やら幼稚園生やらを置いていくわけにもいくまい。
櫛夜は経験的にその大変さがわかる。
結局住まいは変わらなかったものの、親がいなくなり姉と二人で暮らすこととなった当初はもの凄く大変であった。
ちょうど大学受験を終えていた姉と高校受験を終えていた櫛夜だったので、その辺りに気を遣う必要は無かったものの、如何せん慣れる慣れない以前にやるべきことが多すぎてどれも手に付かないのだ。
特に、家事にかかる手間と労力はやってみなければわからないものだろう。
親の偉大さに加えて、これらを楽しいと感じれる人間がいることに驚くばかりである。
環境が変わる、とはそういうことだ。
弥々も、無論綾もそうした苦労をしてきたのだろう。
と、暢気なことを考えている櫛夜に、姉は苦言を呈する。
それも、からかうようにではなく、真面目に、だ。
「あのさ、それって櫛夜くんが忘れてるわけ、なくないかな」
だが、当の櫛夜は自分がどうして少し怒られ気味なのか皆目見当がつかない。
ただ昔、どうだったかを思い出しつつある記憶を探っているだけではないか。
さすがに一緒にいる時間の長い姉弟である。
姉の表情から、ふざけていないことくらいは櫛夜も理解している。
そのため、一応はきちんと聞く体勢を整えておく。
「だって、綾ちゃんが引っ越しちゃった時からでしょ? 櫛夜くんが『確率制御』を使えるようになったのって」
やはり想定外の指摘に、櫛夜は再度思考が停止してしまう。
ようやく動き始めていた回路がまた瞬間的にショートする。
止まる櫛夜に対し、弥々はすぐに反応を見せる。
こうした反応速度はさすがだ。
「確率制御、ってジャンケンのことですか?」
「弥々ちゃんも知ってるんだ? そう……櫛夜くんがジャンケンに勝つ、そんな確率を支配する能力」
相も変わらず大仰な説明だ。
確率なんて操ってはいない。
綾も自身の能力を確率拾介などと言い表していたが、綾の能力は十円玉を拾い上げる能力などではなく、未来を視る能力、救えなかった未来を拾い上げる能力であった。
未来が視れるというのであれば洒落た名付けも構わないだろうが、ジャンケンに勝てる程度で何もそこまで、と櫛夜はやはり思わざるを得ない。
そも、確率とは如何なるものなのか。
櫛夜も高校に身をやつす身分であるので、当然数学の授業で『確率』を扱ったことはある。
それこそ例題ではサイコロに並んでよくジャンケンは出てきたものだ。
今ここにA、B、Cさんの三人がいます。
三人はジャンケンを行い、勝者が一人に決まるまでそれを続けます。
この時、n回目に勝者が決まる確率を求めよ。
このような問題であれば、パターンを調べて回答することになろう。
n-1回目とn回目になにが起これば勝者が一人に決まるか、だ。
この場合、パターンは二つに絞られる。
n-1回目まではずっと三人であいことなり、n回目に誰か一人が勝ち抜けるパターン。
n-1回目までのどこかで誰か一人だけが負け、それ以降二人であいことなり、n回目に一人が勝ち抜けるパターン。
これら二つの確率を求め、足し合わせれば恐らくは答えが出るだろうが。
櫛夜の能力はこんな面倒極まりない計算(とはいえ計算機が発達した現代において、手計算出来る問題を果たして面倒と呼べるかは今日日疑問であるものの)を簡単に『1』にしてしまうとでもいうのか。
確率。
全事象分の場合の数。
全ての場合において櫛夜が勝つならば、確かにその計算結果は『1』以外ありえない。
例えば仮に、能力がサイコロに対して働くならそれもまた良いだろう。
むしろ櫛夜はその方が自分の能力を信じたかもしれない。
そこに存在するサイコロの形状によって、或いは投げた机の凸凹によって、現実のサイコロの出る目にはばらつきがある。
それを無意識に制御するというなら、実際に必要な計算量はこちらの方が断然多いにしても、相手がモノのみであればまだ理解の範疇にありそうなものだが。
ジャンケンで相手になるのはモノではない。
人なのだ。
櫛夜はそこに引っかかりを覚える。
引っかかり、というには生ぬるい、嘔吐を催すほどの不快感を覚えている。
自分が制御している確率が、だ。
真に制御しているのが、もしも、人そのものであるとしたら。
こんな醜い能力は、ない。
確率制御なんかじゃない、人心制御であるなら。
櫛夜の知る、数学で扱う確率の問題と一緒になど、出来るはずもない。
だが今問題なのは姉の大仰な能力説明ではなく、その経緯だ。
「綾文会長が、引っ越した時から、能力が使えるようになった?」
姉の言葉をそのままなぞる。
そうだっただろうか。
確かに、いつからこの能力とも呼べない能力を使えるようになったのか、記憶にない、ような気がする。
「だから、櫛夜くんは忘れちゃいけないことでしょ。むしろ、だからこそ忘れているのかもしれないけれど」
「だからこそ……」
櫛夜はなんとか記憶を探る。
姉がここまで言うのだ。
きっと本当に、忘れるべきではないのだろう。
「私もそんなに覚えていないんだけど、綾お姉ちゃんはきっと、すぐには話さなかったと思うの」
「すぐに、って」
「仲良かった人と別れないといけない、なんて、綾お姉ちゃんは言いづらいだろうから」
「じゃあ、引っ越す、って事実はほぼ直前まで教えて貰っていなかった、はず……ん」
教えてもらえなかった。
幼い自分は何を思った。
何を考えた。
近所の公園でよく遊んだビジョンは見える。
そうだ。
何もかも順風満帆な幼少期ではなかったはずだ。
それこそ、仲良くしていた少女との別れなんて悲しい出来事を、忘れていいはずがない。
少女はそれでも語ったはずだ。
きちんとかどうかはわからないが。
かの綾文綾だ。
語るべき時は語る少女であったはずだ。
櫛咲櫛夜はいつも通り公園へと出かけたはずだ。
そしていつも通り少女と遊んでいたはずだ。
そして。
唐突に語られたはずだ。
『私ね、明日、遠くに引っ越しちゃうんだって』
「あ……」
「どう? 思い出した?」
今度は優しい声で、姉は微笑む。
一言思い出せば、流れるように、一気に全てを思い出す。
「俺、言われてる……遠くに行ってしまうって」
「綾お姉ちゃんに、ですか?」
「あ、ぁ」
そうだ。
遠くに行くと、言われて。
そして。
それで。
「ジャンケンを、したんだ」
「ジャンケン、ですか」
櫛夜は探り探り言葉を紡ぐ。
こんなときの弥々は良き聞き手となる。
気を遣っているのかそうした元来からの性格なのかは判断が難しいところだが、弥々のこういうところも櫛夜は長所だと思っている。
話し手である時と聞き手である時の按配が絶妙である。
弥々自身で覚えている記憶もあるだろうが、それをこのタイミングで話すことは無い。
「そうだ、ジャンケンで勝ったら、遠くへは行かないって、言われて、それで」
「勝ったんですか?」
「いや、負けた。そう、負けたんだ、それで」
後悔したのか。
怒りに身を委ねたのか。
悲嘆に暮れたのか。
そうだ。
櫛咲櫛夜は願ったはずだ。
ジャンケンで勝てていれば、と。
当然、ジャンケンで勝っていたところで、引っ越しが無くなるわけでもないが。
それでも幼い櫛夜はそう考えたはずだ。
考え、その内に雑多な記憶と共に忘れていったのだろう。
忘れてしまっていたのだろう。
「……なるほど。確かに、ジャンケンに勝てるようになったのはあの時、そう願ったからなのかもしれない」
「櫛夜くんあの時泣きながらさ、『勝ちたかった』なんて言っていたよ」
「そっか……」
そこまで思い出した上で。
櫛夜は言わざるを得ない。
思い出したからこそ、かもしれないし。
目の前に弥々がいるから、かもしれない。
どちらにせよ、櫛夜としては、どうにもこうにも、言わなければならないことがある。
少し茶を飲んで、気を落ち着かせる。
なるべくどうでもいいような雰囲気を出して。
なるべく平静を保ったまま。
「まぁそれでも、過去の話だけどな……」
「そう。過去の話で、昔のお話で、幼い頃の話で。今の櫛夜くんの在り方には何も関係がないことだよね」
姉も櫛夜に続き。
弥々も同調する。
「確かに今は関係、ないんですよね」
それっきり、昔話は終わりとなった。
「今日はありがとうございましたッ」
「いえいえ、また来てね。今度は綾ちゃんも一緒に」
「はいですッ」
簡単に挨拶を済ませて、弥々は櫛咲家を出た。
当然とばかりに櫛夜は途中まで送っていく、と帰路を共にしている。
夕焼けに染まる街を眺めながら、駅への道のりを二人並んで歩く。
今更ながら、今日の弥々は珍しく髪を結んでいるのだな、と櫛夜は気付く。
綾ほど髪が長くはないので、ポニーテール、というほどたてがみが揺れる印象は無い。
だが後頭部で一つに纏められた髪はふわりと、弥々のはつらつとした動きによく映えている。
また、弥々の私服を多く見ているわけでもないのでこれまた珍しいのかどうか櫛夜には判断が出来なかったが、今日の弥々はスカートではなくジーンズのパンツを履いている。
それがまた余計に無垢な少年らしさを増している。
「髪、可愛いな」
「……へッ!?」
不意打ちだったためか、弥々が顔を真っ赤にしてあたふたしている。
その反応を受けて、櫛夜も若干小恥ずかしくなる。
人通り慌てた後に弥々はぶすっとした顔で不満を零す。
「それ、会った時に言って欲しいです」
「すまん。今気付いた」
「遅いです全く……何も気付いてないんだろうなぁとは呆れてましたけど」
弥々は櫛夜の右腕に自身の左腕を絡ませた。
そして手をしっかりと握る。
「気付いた時点で言ってくれたので、これで許してあげます」
にやり、と上目遣いで話す弥々に櫛夜も顔が火照る。
さすがにこれは恥ずかしくないか、とも思うのだが。
不思議と弥々から伝わる暖かさから離れたくない、と思う気持ちがそれよりも強い。
だから櫛夜はそれについては何も言わず、代わりに今日の弥々の行動に関して突っ込みを入れる。
「なぁ弥々、勘違いなら別にそれでもいいんだけどさ」
「なんでしょう」
「今日は、初めから俺の姉に会いに来るつもりだったんじゃないか?」
急に櫛咲家に向かう、と話したこと。
予め、どういった手段かは不明なものの家の場所を調べていたこと。
そして偶々なのかどうか、姉が予定のない日曜日であったこと。
弥々も含め、綾文綾と櫛咲櫛夜が幼い頃に出会っていたこと。
全部が狙い通りだったのではないか。
と櫛夜は勘操っていた。
「いえ、お姉さまに会ったのは偶然です。期待していた節はありますが」
「そうなのか」
「一つは単純に櫛夜先輩の家にお邪魔したかったのと、一つは過去の話を櫛夜先輩としたかったこと。それを誰にも聞かれたくなかったこと、理由としてはそんなものです」
弥々は意外と簡単に話した。
そう語ると弥々は嬉しげに結んだ髪に触れた。
櫛夜から見えないような顔の角度で、にやにやしている。
勿論、腕を組んでいるほどの近さだ、見えないようにしているつもりでも、十分櫛夜には丸見えだ。
「櫛夜先輩」
「なんだ?」
「私、実は一つ、考えていることがあるんです。決意したことがあるんです」
弥々は笑った顔のまま、しかし櫛夜の方を決して向かずに話す。
「櫛夜先輩、誰かに告白されませんでしたか?」
弥々の急な質問。
だがなんとなく、櫛夜はその質問をされるような気がしていた。
「ごめん。実はこのあいだ、侑李に告白された。断ったんだけど言いづらくて黙っていた」
「はい、実は友莉先輩から直接謝られました。謝る必要もないと思いますが、櫛夜先輩がいつ話してくれるのかなーとは思ってました、です」
「ごめん」
「いえ、大丈夫です。櫛夜先輩の気持ちも、多少なりわかるとは言わせて頂きます」
わかる、わけがないと弥々は理解している。
人の気持ちなど、誰にもわからない。
いくら言葉を重ねようとも、他人は他人であって。
気持ちなんて実体のないものは、見えないからこそ言葉にするしかないわけだが。
言葉というものは実は人によって解釈が全く違う。
人は皆違う言語を操っている。
そのことを知っているはずの弥々はそれでも、わかる、と言った。
ならばきっと、わかるのだろう。
櫛夜にそう言い切れるくらいには、思考を重ねたのだろう。
「でも今聞きたいのは、それ以外に、です」
それ以外。
つまり、友莉以外に、櫛夜に告白した人物はいるか、という質問。
そこまで聞いて、櫛夜もようやく、弥々の今日の行動の意味を悟る。
「弥々、もしかして気付いているのか?」
「気付いてないから聞いてるんですよ、櫛夜先輩」
「そりゃそうか」
だが、この受け答えをする時点で、櫛夜の疑問には答えている。
そうか気付いていたか、と櫛夜は少しだけ悲しい気持ちになる。
「たぶんこれからだよ。弥々」
「これからですか。未来視ですか?」
「未来視でもなんでもない。ただ知っていることを並び立てただけだ」
櫛夜はポケットから携帯電話を取り出し、少し操作をすると、画面を弥々に見せた。
そこにはメールの文面が書かれていた。
宛先は、櫛夜宛て。
送信者は、奏音。
日付は数日前。
その文面は。
『突然で申し訳ないのだけれど櫛咲くん、友莉さん以外に、誰かに告白されなかった?』
つい先ほど弥々がした質問と全く同じ内容であった。
それを見て、弥々が少しだけ驚く。
「あれれ、そっか、奏音先輩も気付いていたんですか。やっぱりそれって奏音先輩が、その、光瀬先輩のこと」
「いや、たぶん少しだけ違うと思うぞ」
状況を納得しようとした弥々に、櫛夜は説明を加える。
その説明を受けて、今度はさすがに本当の意味で驚愕に目を見張る。
しばらく互いに無言の状態が続く。
それでも沈黙を先に破るのは、弥々だ。
「櫛夜先輩」
「なんだ?」
「私、櫛夜先輩のことが、好きです」
「おぅ、あ、ありがとう」
「だから櫛夜先輩の役割を一つ、私に譲ってはくれませんか?」
櫛夜に反対する理由はなかった。
頷いて肯定する。
それを見て、弥々は顔を綻ばす。
何が嬉しいのか、櫛夜にはわからない。
「いいのか?」
だから思わず、尋ねてしまった。
これこそ、今更だ、というのに。
まさに、何を今更、と弥々は妙に櫛夜を小馬鹿にしたかのような顔を見せた。
その時ちょうどすれ違った主婦達が二人を見て、「あらあら」と小さく冷やかす。
この辺りでは腕をくっ付けて歩いているカップルも珍しいのかもしれない。
若いなぁ、とでも思っているのだろうか。
確かに、自分達は若い。
目の前のことで精一杯だ。
櫛夜とて、いかに冷静に事を対処しようと思っても、上手くいかないことばかりだ。
自分のこと。
綾のこと。
弥々のこと。
友莉のこと。
奏音のこと。
優芽のこと。
光のこと。
珠子のこと。
みもりのこと。
詩織のこと。
何一つ、思うように動けない。
いくつものことを同時になんて、動かすことは出来ない。
それで願った先が。
時間を繰り返すことに繋がるくらいには、自分達は未熟だ。
誰かは言うのだろう。
それでいいのだと。
また誰かは言うのだろう。
それでいいのかと。
櫛夜は、櫛夜達は選ばなくてはいけないのだろう。
そのどちらの立場に立つのかを。
そして櫛夜は、弥々は、奏音は、『それでいいのか』と語る側に回ったのだ。
であれば、『それでいいのだ』と考える側の人間と、真っ向から戦わなければならない。
そうしなくてはならない。
それでいいわけがないのだから。
戦わなければ、何もかも思い通りになんて、いくはずがない。
ならば、弥々が戦うこともやはり、必然なのだろう。
櫛夜に口を出す権利は、当然ない。
「それでですね。一つ決断したんです。聞いてくれますか」
「いいよ。なんだ?」
「櫛夜先輩、好きです」
「あぁ。俺も、なんつーか、とっくに好きになってるよ」
「そうですか。嬉しいです」
「なんかさ、ふとした時に弥々のことを考えている自分がいるんだよな」
「ふふ、すっかり私の虜なわけですね」
「かもな」
弥々は満足げな顔のまま、全く口調を変えずに。
歩調も変えずに。
櫛夜のことを見ずに。
淡々と、決意を口にした。
「櫛夜先輩、別れましょう」
今度は真意を理解できた櫛夜は。
無駄に言葉を重ねることはしなかった。
何より、彼女の決意を無駄に出来るわけがなかった。
何故なら、もうとっくに櫛夜の答えも出ているからだ。
「わかった。別れよう」
二人は言い合い。
肩を合わせ、腕を組み、手を繋いだまま。
笑顔で別れの言葉を交わした。
別れの言葉が、二人を前に進める、そう、信じて。




