お願い
時刻は夕方六時過ぎ。
幸魂高校は進学校ではあるが、そのためにあまり部活動に熱を入れてはいない。
入れてはいないと言えど、それは本気でない、という意味合いではないのだが。
例えば生徒の完全下校時間は六時である。
その時間設定そのものは一般的ではあるのだろうが、これに特別な申請を加えることで普通、夜の七時まで練習を認められている部活動がありそうなものだが、ここでは存在しない。
総ての部活動は遍く六時には帰宅の準備を済ませて校門を出なければならない。
いくら勉学以外の重要性を説いていたとしても、幸魂高校の本懐としては、きちんと日々の勉学に励んで欲しい、ということなのだろう。
一部の生徒は不満に思ってもいるらしいが、ただの愚痴で教育組織としての高等学校の在り方を変えれるだろうという幻想を抱く者などいない。
そうした生徒こそ、部活動は熱心に取り組みつつ、学業も優秀な成績を修めてみせて、暗に学校側にアピールをしている。
勿論、そうした行為が実を結ぶことはほとんどない。
ないことを頭で理解していても、行動せざるを得ない。
世間ではそんな衝動的突発的行動を、若気の至りだとか呼ぶのだろうか。
はたまた、青春とでも呼ぶのだろうか。
いっそ社会を知り、大人の狡猾さを知った者であれば、無意義とでも呼ぶのだろうか。
人の価値観は、そう簡単には変わらない。
一介の高校生に、大人の気持ちになってみろ、などと言ったところで、彼ら彼女らは大人ではないのだから、分かるはずもない。
成熟しきった大人に、高校生の気持ちになってみろ、などと言ったところで、彼ら彼女らにとって高校生活は記憶の彼方なのだから、分かるはずもない。
人の記憶ほど曖昧なものはないだろう。
一度憶えたものを、次の日には半分以上も忘れてしまう生き物だ。
忘れたくないものですら、繰り返し忘れたくないと念じないことには忘れたことすら忘れてしまう。
大人であれ、自らの高校生活において大変難儀な事態等なら細かい事情も覚えていようが、自らの感情の機微などはほとんど忘却していることだろう。
なにより、人にとって大切なのは普通、今現在の関わりである。
年齢が上がってくると、誰もがこう思ったことがあるのではなかろうか。
「今はちょっと忙しい」
大体が急な予定を入れられそうになった時に活躍する代表的な言い訳なのだが。
学校生活。
勉強。
部活動。
委員会。
習い事。
友人との人間関係。
所詮、学生とは、その程度の時間的制約しか存在しないはずなのに。
強いて言えばそこにアルバイトも加わるのかもしれないが。
学生は、忙しいのだろうか。
学生本人は言うだろう、学生なりに色々ある、と。
社会人は言うだろう、学生時代しか自由に色々なことは出来ない、と。
発言自体はどちらも正直な胸中から来るものであろう。
しかし、その認識の差を埋めることは適わない。
人にとって、目の前の人間関係とは、それほどまでに強力ということだ。
誰も彼も、他人に優先順位をつけている。
学生にとって大事なのは自分の将来ではなく、自分の現在の立場の確保であり。
会わなくても、行わなくても都合が悪くならないことを意識的に後回しにしている。
本来それは悪いことだと一辺倒に片付けることなど出来はしないのだろうが。
自らの学生時代を振り返る余裕が十分にあり、仕事の責任を知ってしまった大人は。
同じく考えざるを得ない。
「学生時代に自ら学んだことは必ず糧になる」
学生の内しか時間がないわけではない。
しかし、学生という身分は学生が思っているよりもよほど時間を作り易い。
そして、十代、二十代前半という期間を過ぎると、思っている以上に無理が出来なくなる。
身体的にも精神的にも、言うことを聞かなくなってしまう。
規則正しい生活を送るほうが身体は楽であり、多岐に渡る情報を頭に詰め込むことは出来ないので逐次メモを取るほうが楽なのだ。
そしてその自身の変化を、大人というものはその癖認めようとはしない。
「大人は無理が出来ないんだ」
そう言って予防線を張っておきながら、だ。
自分がこんなにも充実した生活が送れるのだから、学生だって同じようにすれば良いのではないか。
と、本気で考えている。
大人は忘れてしまっているが、学生とは案外タフな生き物なのだ。
互いにすれ違う価値観が、上手くマッチングすることは稀有であって。
見事に分かり合えることが出来たなら、諸手を挙げて歓喜に揺れるべき事態である。
特に、互いを互いに思いやることが難しいこんな世の中では。
優先順位に縛られすぎて、自分にとって本当に大事なものが何なのか分からなくなっている、こんな世の中では。
自分の思いやりの心が相手に届くだなんて勘違いしないほうがいい。
相手の思いやりの心が自分に届くだなんて勘違いしないほうがいい。
そんなものなのかもしれない。
結局最後まで陸上部の活動を教室から眺めていた櫛夜と奏音は、部活動が終わるや否や、常日頃友莉が利用している裏門に移動した。
六時を告げるチャイムが鳴り響く前に、部活後の生徒がぞろぞろと姿を見せる。
その中に、陸上部の仲間と共に歩いてくる友莉の姿も見えた。
奏音が上品に手を振って存在を知らせようとする前に友莉も気付いたらしい、奏音の元に真っ直ぐ走って来た。
「奏音! どうしたの!」
部活後だというのに元気な少女である。
微塵も疲れを感じさせない快活な様子で友莉はいつも通り奏音に話しかける。
その様に、奏音が若干表情を曇らせた。
無理もない、と櫛夜は思う。
目の前で明るく話している少女が、大怪我を負ってしまう未来を視せられて、正気のままでいられるほうがどうかしている。
「少し櫛咲くんも交えて話したいことがあって。出来れば三人で帰りたいのだけど」
「そっか! わかった!」
さすがに返事も早い。
迷いが一切見られない。
きっと、彼女はいつだってそうして生きているのだろう、と誰が見てもわかるやりとりだ。
友莉はくるりと振り向いて、先ほどまで一緒にいた友人達に声を掛けた。
「私! 奏音と帰るから! また明日ね!」
ぶんぶん、と大きく大きく友莉は手を振る。
友莉のそんな行動はやはり日常の光景なのだろう、特に言葉を重ねるでもなく、陸上部の友人であろう女子生徒たちも手を振り返している。
櫛夜はその一連の流れに対して密かに感嘆の念を抱いた。
(意外と仲、良いもんだな)
友莉の部活を奏音と二人、教室から見下ろしていた際には、周りとの関係性を無駄に勘繰ったりもしたのだが。
少なくとも表面的には衝突はないらしい。
一緒に帰るくらいには。
突発的な行動を容認出来るくらいには。
互いに信頼しているのだろう。
櫛夜にはそれだけでも十分に眩しい。
これから嫌な話をしようというのに関わらず、櫛夜も暢気なものである。
そんな風に少しでも本題から切り離した思考をしていなければ、辛い、とも言えるのかもしれないが。
「それで! 話したいことって! 生徒会のことかな!」
「そうね……一応そうなるのかしら。場所を移してもいいかしら」
「もちろん!」
二人も軽く言い合って、三人並んで歩き出す。
櫛夜は今更女子二人と下校することに若干の恥ずかしさと、どことなく罪悪感を感じつつ、しかし距離を空けすぎることなく歩いてゆく。
「あれ! 歩きながらは話さないの!」
帰路に着いているというのに特に話をしようとしない二人の様子に友莉が疑問を呈する。
すぐに気付く辺り、さすがと言うべきか、呼んでおいて話をしない二人がおかしいと言うべきか。
微妙な線ではある。
「うん、あまり人に聞かれたくない話」
「そっか!」
友莉がしっかり大きく頷く。
しかし奏音が「人に聞かれたくない」と言ったのに合わせて、若干声のトーンを落としている。
こうした気遣いが出来るのも、彼女の美徳なのだろう。
さて、奏音が言うように、あまり人に聞かれたくはないのだが、如何せん既に夕方六時である。
帰りが遅くになるのはどうかと思い、櫛夜はもうすぐ近くの店にでも入らないか、と提案した。
が、学校近くの店に入ることは都合上よろしくない、と真面目な奏音は言ってのけた。
櫛夜に言わせれば、緊急事態くらい校則やらモラルやらに縛られなくてもいい、はずだが奏音にその理論は通用しないらしい。
仮にも生徒会役員である以上は、ロボットのように校則を守る必要はないだろうが、風紀を乱しかねない行為は他の生徒に見られてしまう場所では慎むべきである、というのが彼女の言い分だった。
状況が状況だけにどこか店に入ること自体は容認しても、他の生徒に見られてしまうような場所は避けるべきであるとはさすがである。
反論の余地もない奏音の意見に櫛夜も従うことに異議はない。
代わりに何か良い場所があるのかどうかを尋ねる。
ただそこは常より模範的な生徒である奏音である、どういった場所でならば話が出来るか、など見当も付かない。
「じゃあ、一応俺に案がある」
と、次に櫛夜が提案したのは、つい昨日弥々に連れられた古風な雰囲気の喫茶店だ。
枸杞駅にあるその喫茶店ならば櫛夜以外の二人は定期圏内であったのと、その枸杞駅周辺でも大通りを避けた、普通学生ならば立ち寄らない場所であったことから、その意見は受け入れられた。
櫛夜は、櫛夜だけ帰りが逆方向であるという批判をどうにかこうにか撃退して、三人でその喫茶店に入る。
駅を出てすぐの所では幸魂高校の生徒が散見されたが、ここまで来るとやはり人通りが少なく、学生らしき姿は一切見られない。
どうして同じ地域なのにこうも差が生まれるのだろうか、などと考えつつ。
ようやく櫛夜と奏音は友莉に向き合う。
ちなみに、席も櫛夜と奏音が並び、友莉に物理的に向き合うように座っている。
特にそのことに他意はない。
「さて、と。それで、話なのだけど」
「うん! 奏音が言い淀むなんて珍しいね!」
しかし元気な友莉である。
落ち着いた雰囲気の店内に流れるピアノの旋律とは相性が悪そうだ。
そんな友莉に、再び奏音の言葉が途切れる。
仕方なく、櫛夜が後を継ぐ。
「話ってのは侑李のことなんだが、そうだな、順を追って話したい。そんなわけで手出してくれ侑李」
「はい!」
友莉はぴん、と真っ直ぐ櫛夜に手を出す。
そこまで出さなくてもいいんだが、と思いつつ、櫛夜は軽く続ける。
「知ってたか? 実は俺には特殊能力があるんだ、信じるか?」
「信じない!」
「だろうな、でも事実だ、一日に一度ジャンケンで勝つことが出来る能力を持っている」
言って、櫛夜は念じる。
(一回、入魂)
「ジャーンケーン」
そして何の脈絡もなくジャンケンを始める。
「「ポン!」」
急なジャンケンでも、人間意外と反応できる。
そんな不思議な経験則をここ最近櫛夜は実感しているのだが。
大体、『ジャーンケーン』やら『最初はグー』という発言がくれば遅れることなく反応しきれるらしい。
友莉に至っては、最後の言葉をきちんと声に出すところまで完璧である。
して、結果は。
当然ながら、櫛夜がチョキで友莉がパー、と櫛夜の勝利となっている。
この場には最低でも三人、櫛夜、奏音、友莉がいるのだから能力発動の条件は満たしているはずである、となんだか綾に乗せられている気もしつつ櫛夜は自身の能力の有効性も同時に確認しておく。
有効であっても有用ではないことまで、含めてだが。
「ほらな、俺の勝ちだ」
「おぉ! すごい! 櫛咲くんは特殊能力を持っていたのか!」
「……いや、そりゃそうなるよな」
友莉は櫛夜の言うことを全く信じていない。
当たり前だ。
これで信じる人間がいるならば紹介して欲しいくらいだ、と櫛夜も頭を掻く。
初めから違和感を覚えていた弥々とは違い、一から非現実的要素を信じさせるのは無理がありそうだ。
少なくとも、理論立てていく必要があるのだろう。
「まぁ、信じてもらえなくて当然だと俺も思うわけだが」
「だよね! 普通にジャンケンだし! 三十三パーセントだし!」
正論過ぎる。
突っ込みも軽快な友莉に櫛夜は早速、勝てない気がする、という実体のない謎の敗北感を感じるが。
ここは怯む訳にもいかない。
「あのさ、俺、実はこの能力をずっと持っていて、それで綾文会長に生徒会に誘われたんだ」
「へぇ! そうなんだ!」
「生徒会に誘われた理由は、金曜にやった体育祭の女子の新競技を決めるジャンケン、あれで勝ちたかったからだ」
「そいえば櫛咲くん一人勝ちだったね!」
「あれも能力を使ったんだ。それで綾文会長は新競技をどうしても飛びつき綱引きにしたかった」
「元々推してたもんね! 私達が騎馬戦やりたい! って言っても曲げなかったよ!」
「あぁ。でも、その理由、俺の能力を使ってまで勝ちたかった理由。侑李たちが生徒の意見をまとめてきても曲がらなかった理由、知りたくないか?」
「ううん別に!」
「――っ」
櫛夜は確信に至る。
確かに能力、なんてものの存在を認めろなどというのは無理がある。
ことここに至っても、櫛夜自身、完全に信じているか、と問われれば難しい所である。
人に漫画やアニメの世界の住人の持つような能力など、ありはしない。
それが当たり前であり常識であり普通であり普通であり普通である。
普通だ、なんて意識するまでもなく、人にそんな力は宿ってはいない。
人の想像しうる事象は全て実現可能性がある、とはよく聞く名言であるが、さすがに世界を捻じ曲げる特殊な力はないだろう。
一応の反論を試みると。
人は炎を自在に操れる。
マッチを擦れば炎は出るし、コンロから出る炎で料理は出来るし、ガスを用いて金属板を溶接することも溶断することも出来る。
人は水を自在に操れる。
水道管は自在に配置されているし、噴水は芸術作品として付加価値を持っているし、人工的に津波を再現することも出来る。
人は電気を自在に操れる。
電気を蓄えることが出来るし、アンプを介せば電圧を何倍にも大きく小さくすることが出来るし、雷を作り出すことだって出来る。
あらゆる方法で空を飛ぶことは出来るし、音速の壁を突破することも出来るし身体の一部を機械で補うことも出来る。
割と人は、自分達が思っている以上に何だって実現してきたのだ。
"自然界の法則"と"道具"を繋げることによって、魔法と呼んでも差し支えない技術を発展させてきたのだ。
ともすれば、ファンタジー世界の人々が今の人間の姿を見たならば、『そんな道具を生み出す特殊能力など私達は持っていないよ』と言い出すかもしれない。
畢竟、凄い技術を持ってはいるのだが、ひとまず現在道具もなしに魔法のような力を発揮できる人間は確認されていない。
だから友莉が櫛夜の能力を信じないことは別に驚くようなことでもないのだが。
友莉は断言した。
綾に、何か、行動しなければならない理由があったとして。
その理由に興味がない、と。
そこに何か裏のメッセージが含まれているのかどうか、そこまで櫛夜は読めないが。
少なくとも、侑李友莉という人間の生き方が見えてきた。
簡単に評するならば、友莉は現状を嘆くタイプではない、ということである。
つまり、現状ないものは諦める、現状あるものを組み合わせてどうにか戦うタイプ、らしい。
より詳しく言えば、今この瞬間に目の前にないものを追い求めようとは、恐らくしない。
全く、これからの話をするのに、伝えられる気がしない。
そう感じた櫛夜は横目に奏音を見る。
奏音はこのことを予め知ってはいたのだろう。
ここまで強く感じ取っていたのかどうかは不明だが。
奏音も小さく頷いて、櫛夜に続く。
「実はね。私も、櫛咲くんの話を信じて欲しいの。友莉さん」
「奏音が冗談! 珍しい!」
やはり当然というべきか、奏音の言葉も信じようとはしない。
二人揃って自分をからかっている、と考えているのだろうか。
「私も、新競技を騎馬戦にしようとあそこまで躍起になっていたのには理由があるの」
「そういえばちょっと不思議だったよ! 奏音にしては強引だなぁって!」
そうだったのか、と、自分が出会う前の奏音の姿を櫛夜は想像する。
それでもやはり、奏音はなるべく冷静に最悪の事態を避けるために動いてきたのだろう。
だから、わざわざ生徒の声を寄せて綾に意見を通そうとしたのだ。
それでも綾が突っぱねたことにはさぞ不穏な空気を感じたことだろう。
自分の視ている未来が本物になるかもしれない、と。
そして、突如現れたイレギュラーな存在、櫛咲櫛夜の存在を放ってはおけなかっただろう。
今日まで奏音がどれだけ悩んでいたかを、友莉のほんの少しの発言から汲み取った櫛夜は気持ちを改めて友莉と面する。
真剣な眼差しを友莉に向ける。
ふざけている、とは言わせないように。
「なぁ頼む。難しいのはわかるけど、真面目な話だと思って聞いて欲しい」
「えー!」
友莉はわかんないなー、という顔を浮かべる。
だが聞く姿勢は正した。
表面的なものかもしれないが、それでも相手のことを思いやれるが故の行動だろう。
奏音はそんな友莉を、守りたいのだ。
「あのね。私も綾文会長も、同じ理由があって、体育祭の新競技を譲ろうとしなかったの」
奏音の声が、少しだけ震えている。
核心を言うべき時節が、近づいている。
「私ね、未来が視えるの。それに、綾文会長も、未来を視ることが出来る」
唐突な、告白。
櫛夜にとっては既知の事実であるが。
友莉にとってはやはり、ありえない空想の話である。
だが、その空想が、奏音の口から出ていることに戸惑っている。
「あれ! えっと! よくわかんないな!」
それでも、友莉はまだいつも通りのスタンスを崩さない。
戸惑いはしても、返事はしっかりしている。
彼女なりに思うところがあるようだ。
友莉は先ほどからわかりやすく奏音に気を遣っている。
それは友人だからこその関係なのだろうし。
一年間共に生徒会役員として活動してきたからこその信頼の証なのだろうし。
その分、奏音が嘘を吐いていないこと、冗談で話しているわけではないことが、わかってしまっている。
わかってしまい、しかし自分の常識を友莉は疑うわけにもいかず、混乱している。
「私と綾文会長には、同じ未来が視えているの、それはね――」
そして。
その、友莉に。
奏音は、止めを刺す。
あるいは、それを発言することで、自分自身にも止めを刺しているのかもしれないが。
はっきりと、聞き間違いが起こらないように。
言ってしまった。
「友莉さんあなたが、体育祭で大怪我を負ってしまって、二度と歩くことが出来なくなってしまう――そんな未来」
そう、言い切ってしまった。
奏音はもうほとんど泣きそうな顔をしていた。
その状態でも、奏音は言葉を続ける。
「だから、ね。今日はお願いに来たの。お願い。体育祭の女子の新競技だけでいいから、休んで欲しい」
櫛夜は、その奏音の表情をすぐ隣で見て、そして目を離せなくなってしまった。
そうだ。
(あの時も、俺にお願いをしてきた時にもこんな表情をしたから、俺は悩んだんだ)
どうしても、騎馬戦にしたい、と奏音が櫛夜に言ってきたあの日。
奏音が浮かべたものは、本物だったのだろう。
既に起きた事故ではなかったが、しかしこれから起こってしまうかもしれない事故を憂うだけ、ではない。
そこには友人を、仲間を想う心が溢れていたのだ。
と同時に、櫛夜の思考は綾へと及ぶ。
綾も、同じ顔をしていた。
それはやはり、奏音同様、友莉を想う気持ちから生まれた表情だったのか、と思うと櫛夜の胸も不思議と熱くなる。
櫛夜は自分自身の変化をおかしく思っていた。
どうして、人付き合いを避けてきた自分が、こうも二人の言葉に突き動かされているのだろうかと。
いや、弥々も含めれば三人だが。
とにかく、自分がどうして変わってしまったのか、その答えに辿りついた気がした。
櫛咲櫛夜は、心のどこかでは誰かと繋がりを持ちたかったのだろう。
だからこそ、誰かを想う心から自然と生まれた綾と奏音の言葉を、表情を、櫛夜は無視できなかった。
自分も、その感覚を掴んでみたくなった、のかもしれない。
(案外、単純な奴なのかもしれないな、俺は)
言うまでも無く、単純な人間である櫛夜は、場にそぐわない充実した気持ちを胸に宿す。
「お願い、友莉さん」
そう繰り返す奏音の言葉は、友莉にも届いたのではないか、と。
楽観的に考え。
隣に座り俯く奏音から。
正面の友莉に。
視線を移した。
移し、そして。
見てしまった。
一切の感情を消した侑李友莉の顔を。
「二人して私をからかってるのかな」
平らで、抑揚の無い音の集団。
それが友莉から発せられたと気付くのに、櫛夜も奏音も数秒以上を要した。
櫛夜ですら、今までに無い友莉の表情、声色に若干の戦慄を覚えているというのだ、奏音が感じるそれは余程のものだろう。
今の今まで目の前にいた、ハキハキと元気に喋る少女の姿はそこには、ない。
「櫛咲くんにジャンケンに勝てる能力がある? 奏音と綾文会長が未来が視える? 私が体育祭で大怪我をする? だから体育祭に参加しないで欲しい?」
「あのね、友莉さん本当に」
「本当なわけないよねそんなこと」
「信じられないかもしれないけれど」
「信じる信じないじゃないってば。意味わかんないよ今の奏音」
言っている内容は徐々に辛らつになっているが、声のトーンは感情を感じさせないままである。
櫛夜もフォローに回る。
「頼む。最悪全部を信じなくてもいい、体育祭の一切に不参加でなくていいんだ。新競技だけで」
「新競技だけ? なにそれ」
「理由はさっき狩野が話した通りなんだ。侑李が怪我を負う危険性が非常に高い」
「いいよ、勿論気をつけるよ」
友莉は取り合わない。
沈黙すればするほど、重たい雰囲気に呑まれていく。
言葉を重ねれば重ねるほど、友莉から遠ざかっていく。
そんな印象を拭うべく、しかし櫛夜と奏音は言葉を重ねることしか出来ない。
「私、友莉さんに大怪我なんて、して欲しくない」
「俺達は万が一にもそんな事態が起きないようにしたいんだ」
その言葉は、空気を振動させただけで。
友莉の何を変えることも出来なかった。
「二人はさ、私から私らしさを奪いたいのかな」
「そんな、こと」
「奏音は知ってるよね。私、奏音や優芽のこと好きだし生徒会の活動も好きだし、知らないことを頑張って学ぶことも好きだし、身体を動かすことも好き」
「わかってるけど」
「なら私が嫌うようなこと奏音が言わないで。生徒会の活動が嫌になるようなこと言わないで。体を動かせなくなるなんてこと言わないで」
「私は、だから、体が動かせなくなって欲しくないから」
「私から私らしさを奪ったら、何が残るんだろうね?」
そこで話を切った友莉は立ち上がり、自分が飲んだアイスコーヒー分の金額を財布から取り出し、テーブルに置いた。
何も言えない櫛夜と奏音を残して、友莉は立ち去っていった。
残された櫛夜は、何も言わず。
何も出来ず。
ただ友莉の言葉を反芻するほかなかった。
その隣に座る奏音もまた、何も言わず。
ただ俯いて、涙を流すほかなかった。
櫛夜には、その涙の意味も。
分かるようで、分からない。




