第三章:紅に染まる穏やかなる川
混沌は、炎と共に幕を開けた。
アエリアが油の中に爆弾を投げ込むと、砦の内壁は瞬く間に炎の壁へと変貌した。それと同時にフラヴィアの呪文が炸裂し、火炎は咆哮を上げながら谷全体へと広がっていく。
パニックに陥った馬たちが悲鳴を上げたが、ガランが冷淡に指を一つ鳴らすと、彼らは糸が切れたように崩れ落ち、厩舎の中で静かに意識を失った。
ガイウスとルシッラを縛っていた不可視の霊気が解かれる。だが、解放された二人が次に直面したのは、純然たる地獄だった。テントからは寝ぼけ眼の護衛たちが武器を手に飛び出してくる。
その影から、『鮮血の黄昏』の面々が擬態を解き、戦いの始まりと共にその真の姿を現した。
ティベリウスが地響きのような衝撃と共に壁から飛び降り、足元の地面を粉砕した。炎を背負い、巨大な影となって立ち上がる人狼の姿。その手には神聖なる斧が鈍く光っている。
一人の護衛が気づいた時には、すでに手遅れだった。電光石火のひと振り。斧が振り下ろされ、護衛は物音一つ立てずに崩れ落ちた。
「一人目」
ガランの声は、冷たく、静かにカウントを刻んだ。
死んだ男の仲間が驚愕し、剣を構えて立ち尽くす。だが、その背後から躍り出たトラニオに気づく術はなかった。豹人の動きはもはや残像に近く、短刀が閃いた瞬間、哀れな男は何が起きたのかを理解する間もなく命を落とした。
「二人目」
「何を数えてるんだよ!?」ガイウスが震える声で絶叫した。「……ああ、もういい!」彼は金縛りから逃れるように前へと飛び出した。その顔は、恐怖と怒りが入り混じった仮面のようだった。
「ガイウス、待って!」ルシッラが彼の後を追う。
ガランは満足げな笑みを浮かべて二人を見送り、その後を悠然と歩き出した。混沌は、すべて彼の描いた筋書き通りに展開していた。
砦の奥深くでは、二人の女魔導師、マリーベルとノクタヴィアが立ち尽くしていた。目の前に転がる死体の山に、彼女たちの瞳は驚愕で見開かれている。
「……みんな、死んで……」マリーベルの声が震え、その手がガタガタと波打つ。
「マリーベル! 集中しなさい!」ノクタヴィアが彼女の肩を掴み、現実へと引き戻した。
二人が呪文を唱え始め、足元に魔法陣が形成されようとしたその時、一本のクロスボウの矢がノクタヴィアの手を貫いた。彼女は悲鳴を上げて膝をつき、魔法陣は瞬時に霧散した。
「ノクタヴィア!」 「……いいから、続けなさい!」ノクタヴィアは歯を食いしばり、痛みに耐えながら命じた。
マリーベルは青ざめた顔で再び呪文を紡ごうとする。だが、荒れ狂う炎を背負い、影の中から一人の男が姿を現した。神聖なるクロスボウを無造作に構えた、不敵な姿。
「……そいつは、あまり賢い選択とは言えないな」 ルキウスが残酷な笑みを浮かべて言った。
彼は見せつけるようにクロスボウを《神の宝物庫》へと収めると、わざとらしい心配顔で腰を落とし、彼女の傷口を覗き込んだ。「おっと、こいつは痛そうだ。抜くのを手伝ってやろうか?」
ノクタヴィアの胸の奥から、獣のような唸り声が漏れた。「……貴様……!」彼女は杖を投げ捨て、短刀を抜いた。「……殺してやる!」
彼女は逆上のあまり、ゆらめく火影の中で短刀を閃かせながらルキウスに突っ込んだ。刃が空を切り、彼の腹部を狙う。だが、ルキウスはすでに動いていた。攻撃が届く直前、独楽のように軸をずらして回避する。彼が舞うように退くと、彼女はさらに執拗に攻め立て、狂乱した連撃で彼を後退させた。
ルキウスは鋭くサイドステップを踏み、彼女をテントの裏側へと誘い込んだ。乱戦の喧騒から切り離された二人だけの戦場。再び短刀が空を切り裂くが、彼はそれを事も無げに回避する。反撃の隙を逃さず、ルキウスは彼女の武器を持つ腕に平手打ち(掌打)を叩き込んだ。鋭い衝撃が走り、彼女の指先が不随意に痙攣する。
だが、ノクタヴィアは痛みを無視し、彼の勢いを利用して旋回した。短刀を逆手に持ち替え、死の円弧を描いて彼の首筋を狙う。ルキウスは紙一重でそれをかわした。風を切る音が髪をなびかせる。
同時に彼の左足が、電光石火のカウンターとなって放たれた。ノクタヴィアは間一髪で飛び退き、蹴りは彼女の鼻先をかすめて空を蹴った。
その時、近くで大きな爆発が起きた。味方の仕業だと思い込んだ彼女は、さらに攻勢を強める。左へのフェイントから右への突き。ルキウスは本能的に反応したが、それこそが彼女の狙いだった
手首をひねり、刃の軌道を肩へと向け直す。彼は防戦に回るが、装甲化された籠手に鋼が当たる衝撃で、わずかに体勢を崩した。
一瞬の隙。ノクタヴィアの瞳に邪悪な確信が宿る。残された魔力と体力をすべて注ぎ込み、彼の心臓を貫くべく最後の一撃を振り下ろした。
ルキウスは文字通り「最後の一瞬」で体を捻った。短刀が空を切る。その無防備な瞬間を逃さず、彼は彼女の手首と腕を掴み取った。二人の力がぶつかり合い、膠着状態に陥る。だが、彼女の体力はすでに限界だった。ルキウスは勝ち誇った嘲笑を浮かべた。
その背後から、赤い尾がしなやかに躍り出た。尾の先には予備の短刀。彼はそれを、彼女の肋骨のすぐ下、脇腹へと深く突き立てた。
彼女は息を呑み、膝から崩れ落ちた。
『……おい。その二人、生かしておけと言ったはずだぞ』 ガランの声が、ルキウスの脳裏に響いた。
『わかってますよ、主』ルキウスは満足げな笑みを返し、喘ぐ魔導師を見下ろした。「……自分から抜こうとするなよ?
あんたが死んだら、俺が団長に殺されちまうんだ」
「……お願い……」ノクタヴィアは視界が霞む中で喘いだ。「……マリーベルを……ガイウスを、助けて……」 彼女はそのまま背中から倒れ込み、意識を失った。
ルキウスは溜息をついた。「……そいつを決めるのは俺じゃない。まあ、せいぜい口添えくらいはしてやるよ」
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ルキウスとノクタヴィアが死の舞踏を繰り広げていたその裏で、フラヴィアは壁から音もなく舞い降りていた。彼女はパニックに陥っているマリーベルの背後に立ち、冷たく、落ち着いた声で囁いた。
「……魔法の紡ぎ方がなっていないわね。冷静になりなさい。自分が具現化したいものだけに、意識を集中させるのよ」
「……いや……こないで……」マリーベルは杖を握りしめたまま、すすり泣いた。
「いいわ」フラヴィアは薄笑いを浮かべ、自らの杖を掲げた。「……お手本を見せてあげる」
彼女は目を閉じた。一瞬だけ、幸せな記憶が脳裏をよぎり、杖が輝き始める。だが、その目から一筋の涙がこぼれ落ちた。温もりは瞬時に消失し、代わりに冷たく燃え上がるような怒りが溢れ出す。炎、悲鳴、そして同胞たちの滅亡の記憶が、濁流となって彼女の感覚を支配した。
杖の宝玉が、野営地を飲み込む劫火をも凌ぐ輝きを放った。
彼女の憎悪が、形を成したのだ。




