恋の助言と腐敗の記憶
ガランは枝から飛び降り、少年の隣に腰を下ろした。腕を外套の中に隠し、静かに座る。影の中に潜む『鮮血の黄昏』の面々は、彼に意識を同期させ、固唾を呑んで見守っていた。
「散々な夜だな?」ガランが問いかけた。
「ああ……」ガイウスが呟く。彼は瞬きをし、呆然とした様子で顔を上げた。「……え、あんた誰?」
「ガランだ。深いことは気にするな」
「そうか……」ガイウスは、なかば寝ぼけたまま納得した。「……わかった」
ガランは念波を伸ばし、少年の不安の根源を探り当てた。
「ああ、なるほど」ガランは合点がいったようにニヤリと笑った。「あの子のことか。いいか、もっと頻繁に話しかけて、綺麗な景色でも見に連れてってやれ。あとは、美味い飯や菓子を食わせてやれるくらいの小銭があれば十分だ」
『団長、何やってるんですか!?』ルキウスの思念が脳内で叫ぶ。
「ふぅん……」ガイウスは眉を寄せ、その助言を吟味した。「そんなに、単純なことなのかな?」
『静かにしろ』ガランは団員たちに思念を返しつつ、少年に続けた。「ああ。女ってのはお前が思うほど複雑じゃない、ガイウス。彼女たちも俺たちと同じだ。周りの人間に認められたい、大切にされたいと願っているだけさ」
『正気なの? この人……』フラヴィアの呆れ果てた声が響く。彼女は影の中で腕を組み、首を振った。
『黙ってなさいよ!』アエリアが楽しげに割って入る。彼女は期待に目を輝かせながら、《神の宝物庫》から揚げ豆の袋とワインの小瓶を取り出した。
『良いところなんだから、邪魔しちゃダメ! 団長も言ってたでしょ、「観覧料は俺持ちだ」って』 彼女は豆をポリポリと噛み砕きながら、思念を飛ばす。『特等席なんだから、黙って見てようよ』
フラヴィアはドワーフの女に忌々しげな視線を向けたが、アエリアはどこ吹く風で酒を煽っている。
その間に、ガイウスは考えをまとめていた。「……つまり、アクアエ・スリスに戻ったら、彼女に近づいて、挨拶して、調子を聞いて、夕方を一緒に過ごそうって誘って、飯とデザートを奢って、ワイナリーまで送っていく間、日没まで話し続ける……。これで合ってる?」
「ああ、素質あるな」ガランは言った。「そうやって絆を深めていく中で、添い遂げるべき相手かどうかを悟っていく。それが普通ってやつだ」
砦の壁の上では、トラニオが短刀の切れ味を確かめていた。月の光を受けて刃が冷たく光り、その後ろではもう一本の短刀を握った尾が、空中に滑らかな弧を描いている。
『……信じられん』豹人の男が仲間に思念を送る。
『事態は悪化する一方だぞ』ティベリウスが警告を発し、野営地近くの動きに注意を向けさせた。『前を見ろ』
トラニオは身を乗り出し、鼻先に手を当てた。「……なんてこった(ペル・デオス)」
彼が神に毒づいたのも無理はなかった。壊れた門の近くに、もう一人の人影が近づいていたからだ。門にたどり着いたその影は、手に持っていた光の杖を消した。
「でも待って。それでうまくいく保証なんてないんだろ?」ガイウスの声に再び不安が混じる。
『分かっている。案ずるな』ガランは団員たちを思念で宥めると、ガイウスに返した。「いいや、勘違いするな。うまくはいくだけじゃない。互いを理解できるくらいに親密にさせるんだ。ただ、性格ってのは、調和する代わりに衝突することもあるってだけの話さ」
「……性格が衝突するって、例えばどんな感じ?」
「そうだな。お前は……盗み聞きされるのは好きか?」
「えっ? いや、そんなわけないだろ。なんでそんなこと聞くんだ?」
『……ああ、もう! さっさと先に進んでくださいよ!』ルキウスがこめかみを押さえて思念で呻く。
『楽しめと言ったろう。そう長くはかからん』ガランは彼を宥めると、闇に向かって声を張り上げた。「ほら、出てきて挨拶したらどうだ? 彼に嫌われたくはないだろう?」
門の影から、盗み聞きをしていた本人が姿を現した。彼女は肩のホルダーに差した光の杖を起動させ、うつむきながらこちらへ歩いてきた。
「……ごめんなさい」ルシッラが消え入りそうな声で呟く。「話を盗み聞きするつもりじゃなかったの」
「ルシッラ!?」ガイウスが驚きに目を見開く。
『……言ったことを撤回しないでくださいね』フラヴィアがため息混じりに思念を送る。
『落ち着け。彼女たちを傷つけはしない』ガランは自分の隣の場所を指し示した。「こっちに来い」
ルシッラは頷き、腰を下ろした。
「さて、ルシッラ」ガランが呼びかける。
「……はい?」
彼は不敵に笑った。「ガイウスに、何か言いたいことはあるか?」
ルシッラとガイウスの視線が重なり、彼女はすぐに目を逸らした。頬には鮮やかな朱が差している。ガランは二人を交互に見ながら低く笑った。
「なあ……。何か悪いことが起きる前に、二人とも、想いを伝え合っておいたほうがいいぞ」
『なああああぁぁぁ!?』 『鮮血の黄昏』の全員が、脳内で絶叫した。
「なっ……!?」 ガイウスとルシッラも同時に声を上げた。
影の中では、リーダーのあまりの奇行に、団員たちが(これ以上付き合ってられるかという)乾いた笑い声を漏らしていた。
『笑うな、真面目な話だ』ガランの思念が鋭く響く。「いいから、やれ」彼は言葉に出して促した。「明日、生きて太陽を拝めるかどうてなんて、誰にも分からないんだからな」
ガイウスが後頭部を掻いた。「……それは、随分と不吉な言い草だね。でも、あんたの言う通りかもしれない。家を出たきり、物言わぬ体になって帰ってくる人だっているんだから」
「……ええ、そうね」ルシッラの表情が暗くなる。
「どうしたの、ルシッラ?」ガイウスが尋ねた。
彼女は膝を抱え、腕にぎゅっと力を込めた。「……それは……」
「話してみろ、ルシッラ」ガランが優しく言った。「吐き出してしまえば、少しは楽になる」
彼女は小さく頷いた。「父のことなの……」 震える声で彼女は話し始めた。
「私が育った村が、人狼に襲われたことがあったの。領主様が一番の精鋭を送り込んだわ。私の父と友達も、一緒に戦いたいって志願したんだけど……断られた。でも父たちは諦めきれなくて、こっそり後を追ったの」
彼女は思い出す。父が跪いて自分を抱きしめ、「夜明け前には戻って、お母さんのために花を摘んでくる」と約束してくれたことを。
「父が去っていく背中を見て、怖くて、腹立たしくて……」彼女が囁く。涙がこぼれ落ちた。「でも、父を愛していたし、信じていた。なのに、誰も……誰も戻ってこなかったの」
言葉が詰まる。 「村の人たちが、夜明けに父たちを見つけたわ。人狼の巣の近くで」
彼女は村人から聞いた光景を語った。いたるところに転がる遺体。地面に散乱した空の回復薬の瓶。そして……元凶となった化け物の首を掴んだまま息絶えていた、父の姿。
「みんなが村に戻ってきた時、私は馬車に駆け寄って、かけられていた布を跳ね除けた。そしたら……父が……」 彼女の顔が苦痛に歪む。
「幼すぎて、自分が何を見ているのか理解できなかった」彼女は涙を拭った。
「母は私をきつく抱きしめた……まるで世界が崩れ落ちたみたいだった。……息のある夫を見つけた幸運な人たちは、瓶ごと回復薬をぶちまけて、必死に命を救っていたわ」
「でも、不幸な人たちは……」彼女は深く息を吸う。「……ただ、見てることしかできなかった。回復薬が、逆に遺体の腐敗を早めてしまうのを。愛していた夫たちが……ただの腐った肉の塊に変わっていくのを、見守るしかなかったの」
彼女の肩が震えた。「幸い、私の母はそんな無駄なことはしなかったけれど……それ以来、ずっと忘れられないの。闇に潜む怪物の恐怖も、そして……どれほど勇気があっても、すべてを一瞬で失ってしまうことがあるっていう残酷な現実も」
彼女は激しく泣きじゃくった。幼い日の記憶という重圧に押しつぶされ、その心は粉々に砕け散っていた。




