157:鍛錬と狩り④
四日目の朝。クリオ、ルイナークとの訓練を終えたハヤトは、火照った体に布切れを当てていた。
額と頬、首や肩、腕に胸も。風邪をひいてしまわないように汗を手早く拭いていく。
高い所へ昇っていくお天道様の温もりはまだ弱く、けれど緩やかに抜けていく風は身震いしてしまうほどには冷たくない。
厨房の窓からは、少し前から煙が立っている。
「あっあの、クリオ卿!モンカソー家には秘伝の剣術があるという噂は本当なのでしょうか!」
ふと、舌足らずだが凛とした声が聞こえて振り返ると、茶色の瞳をキラキラと輝かせるルイナークが剣の柄の具合を改めているクリオに迫っているところだった。
「そのような噂があるのですか?」
「はい!クリオ卿とオルバロス卿が学園にいらっしゃった頃、お二人が剣比べで互角の勝負だったのは秘伝の剣術を使われていたからだと、学生の間で噂になっているのです!」
ふむ、と黒い髪の少年は唸る。
カルリスティアが十二歳で学園に入ったこととクリオが二十五歳であることを考えると、おそらく七年ほど前の話だ。オグマンド王立学園は六年で卒業するため、当時を知る生徒はほとんどいないはず。
「なにか期待をさせてしまっているようですが、我が一族には秘伝の剣術などというものはありません。モンカソー家の剣術は学園の教官方もご存知の、ごく普通の剣術ですよ。」
「そう、ですか……失礼しました。」
まあ、「剣の加護」を持つホノカと渡り合ったり、王城で若い兵士に指南したりするような人物だ。派手な尾ひれ背びれは付くだろう。
一方で、少年の興味は少し違うところへ向けられている。
「クリオさんとオルバロスさんって同期なんですか?」
「ええ、同じ年です。歳も私と同じですよ。」
「へー……。」
クリオとオルバロスが同期。ロイ、アストリエス、カルリスティアが二人の後輩。イスタキアは二人の先輩で、カルヴィトゥーレがさらに上の先輩。
__やっぱりみんな、けっこう若いよなぁ。
カルヴィトゥーレは「鉄の鎖」のオーナー兼ギルドマスターで、クリオはモンカソー男爵で。イスタキアとオルバロスは大勢の兵を率いて。アストリエスはごろつき集団の対処を任されて、ロイは軍の訓練に参加して。
この世界の王族貴族というのは、皆そうなのだろうか。それぞれにそれぞれの事情があろうとも、若い頃から無数のヒトの前を歩いていくものなのだろうか。
そんな彼らが自分にいったい何をさせようというのか、少年はこれっぽちも見当がつかないでいる。
誰かの上に立ったことなど、無かったというのに。
できないことは、できるようになればいいとはいえ。
「ハヤトくん。」
手のひらを見つめながらそのようなことを考えていると、ふとクリオが声をかけてくる。
顔をあげると、彼は穏やかな笑みを浮かべていた。
「『剣比べ』をしましょうか。」
柄を握る手に、力が入る。
呼吸が二拍、三拍と早まる。
「はい。お願いします。」
気がついた時は、すでにそう答えていた。
クリオは微笑みを一つだけ返して、物置の軒下に入る。そこには腰ほどの大きさの樽があって、長身剣が何本か収まっている。
「これを。」
「はい。」
柄に布が巻かれただけの、簡素な作りのなまくら。しかし鈍く輝く刃は間違いなく、硬くて重い金属製。
城の中庭の開けた所で向かい合い、二歩ずつ下がる少年と男。
最も基本的で、最も効果的な構え。
少年は、ほう、と息を一つ吐く。
そして思う。これはきっと「あの時」の続きなのだろうと。
風は抜け去り、さえずりは途絶え。梢の擦り音は静まり、吐息は鎮まり。
仄暗い黒に染まった瞳に映る、琥珀色の双眸。
黒いたてがみが、揺れた。
「ふッ!」
強張らせた右足で地を掴み、伸びた左足で土を蹴る。
ただ一人、正面で剣を構える騎士のもとへ。一歩、二歩と距離を縮める。
彼の眼前まであと二歩弱。
「はあッ!」
少年は着地した左足で体を留めると、左手を捻って翻し、鈍い切っ先を突き出した。
「ハッ!」
騎士は迫り来る切っ先に自身の剣の横腹を添わせて軌道を逸らし、鍔から押して弾き返す。
「はあッ!」
「フッ!」
「はッ!はあッ!」
少年は弾かれた剣をすかさず掲げ上げると、左上から右下へ、突き、突きと間髪入れずに「手」を指す。しかし騎士は切っ先、右腹、切っ先の順で剣を当てて防ぎきる。
ならば、と少年が四半歩だけ詰めた、まさにその時。
すでに眼前には鈍く輝く切っ先が迫っていた。
「ハアッ!」
「くうっ!」
突きつけられた切っ先を、少年は下から鍔で弾いて捌く。
「ハアッ!」
「っ?!」
だが弾いたばかりの刀身は今まさに、こちらの頭蓋めがけて振り下ろされている。少年は上げた切っ先を左手で掴み、真上からの一撃を真正面から受け止めにかかる。
本来であれば、これは正しい判断だっただろう。
ちり、と火花が散るまでは、そう言い切れたはずだ。
__重ッ?!
伝わってこないはずの衝撃に脳が揺さぶられ、視界が歪み、足が凍りつく。
いや、確かに伝わったのだ。骨を通じて瞬く間に、手から腕へ、腕から肩へ、肩から首へと押し寄せてきたのだ。
けれども、なおも彼の足は留まらない。
留まってなど、いられるわけがない。
「はあッ!」
「ハッ!」
未だ揺らぐ視界を押して少年は右足を四半歩だけ出し、体に寄っている剣を肩ごと回して右へ薙ぎ払う。それを騎士は刀身を軽く当てる要領で右に弾いて捌く。
しかし少年は弾かれた勢いそのままでさらに四半歩詰め寄ると、鍔と鍔が擦れかけるほどまで剣を寄せて、剣の横腹で騎士の剣を押し上げる。磨き上げられた肉体の騎士とて、上体はわずかにのけ反ってしまう。
「はッ!」
「クッ!」
「はあッ!」
「フッ!」
生まれた空間で少年は左足を四半歩下げながら長身剣を振り下ろすと、さらに右足を四半歩下げつつ左下から正面上へと続く剣を放つ。
騎士は一撃目こそ刀身で受け流したものの、二撃目が直撃した切っ先は騎士の右手側に押し流されてしまう。
そうして晒された、決定的な隙。
「はああッ!!」
横たわる騎士の左腕に、少年は三撃目たる最も慣れた剣戟を叩きこ__
「フンッ!」
「なあっ?!」
気が付けば、切っ先は左上へ跳ね飛ばされていた。
腕の隙間から窺えたのは、柄に添えられただけの左手と翻った右手。
「ハッ!」
「うっ!」
右からの切り上げ。
「ハッ!」
「ぐうっ?!」
左から返す切り上げ。
「ハアッ!」
「があっ?!」
右肩に引きつけてからの突き。
左腕、右腕、胸と直撃したその三連撃で受けた衝撃は、土をしかと掴んでいたはずの両の足が宙に放られてしまうには十二分であった。
どしり、と墜ちる背。力なく垂れる腕。
青空には、うっすらと雲がかかっている。
琥珀色の瞳が映りこんでくるまでは。
「大丈夫ですか?」
穏やかな笑みと共に差し出された左手。
「あ、の。大丈夫で……ぁッ?!」
しかし応えようとして伸ばした左手から、強烈な鈍痛が全身を駆け巡った。
左肩の筋肉は張り詰めて硬直し、耳鳴りもひどく。背中全体が痺れるような感覚に支配されていて、左の膝は凍えるみたく震えている。
「師っ?!だっだっ大丈夫ですかっ?!」
「あっく、クリオさ、ん……っ!なんっですか、これっ?!」
「動かないで。しばらく体を休めましょう。」
「あい……。」
体から力を抜くと痛みが和らぐ。しばらく大人しくしていれば動けるようになるに違いない。
ただ、黙って休ませてくれないのがクリオ・オーラ・モンカソーという人物であることを忘れてはならない。
「全体的にはかなり良い動きでしたね。レオノルド卿から剣術は教わっていないのでしたね。」
「あっはい。打ち合いでちょっと使ったくらいです。」
「初めに突きを繰り出したのは果敢な選択でしたが、そこで首元を狙っていれば相手は上半身への攻撃を意識するようになり、大抵は下半身の守りが緩みます。さらに上半身へ打ち込むことでも不意の隙が生まれやすくなるでしょう。」
「えっ。あ、はい。」
「私が突きから振り下ろしを続けた時、正面から防御していましたね。意識を剣に集中してしまっては蹴りや体当たりに対応できなくなります。半歩下がって受け流すか柄頭で突きを繰り出すのが定石ですが、片足を下げて半身で躱しつつ鍔迫り合いに持ち込むのも選択肢に入るでしょう。覚えておいてください。」
「はい……。」
「その後の体勢を崩しにかかる判断と、距離を取り直しつつ二連撃を打ち込んだのは見事でした。後退は追撃する隙を相手に与えますから、今後も追撃させない手を必ず合わせるようにしてください。」
「はい……。」
穏やかな笑みから放たれる淡々とした厳しい指導。以前に受けたことがあっただけに、面喰ってしまうことはない。
「その鍛え方ならば雑兵は正面から力で抑え込み、長時間の戦闘に備えて集中力を維持する戦い方が向いているでしょう。盾と斧を用いた手堅い戦闘術はそのような戦い方に適しています。これからも続けていってください。」
「はい。わかりました。」
そうしてクリオが一通り話し終えたところでハヤトは、ほう、と内心で息をつく。
全力を尽くした。しかし結局のところ、クリオには敵わなかった。しかも本人が言及した蹴りや体当たりを使わずに、である。
クリオの戦い方は守りが堅く、攻めも鋭いバランス型。彼はそれを高い次元に至らせているのだ。
もしかしたらこれからは、彼ほどの戦士と戦場で命を取り合う機会が来るかもしれない。
その時は、案外と近いかもしれない。
「そろそろ立てますか?」
「えっと、たぶん……。」
再び差し出されたクリオの左手を、ハヤトはしっかりと掴む。肩も膝も、すっかり元の調子に戻っていた。
ただ、立ち上がってすぐに両の腕と胸がじんじんと痛んでくる。
「いっ……。」
腕や胸を見ると、剣を打ち込まれた跡が赤く腫れてきていた。生身に受けたのだから無理もない。
「ああ、痣になってしまいますね。早く水で冷やしましょう。」
「あっ僕、井戸で汲んできます!」
「お願いします。」
冷水に浸けた手ぬぐいを腫れた所に当てていると、どこからか口を真一文字に結んだ中年の男が丈長の衣を持ってやってきた。クリオが衣を受け取ると、真一文字の口が少しだけ開く。
「クリオ様、支度は整っております。」
「頼むよ、ギルベルト。」
「承りました。」
それだけ話して去っていく男。クリオが名前で呼んでいたことからして、それなりの付き合いがありそうだが。
「今のヒトは?」
「彼は私の付き人です。」
「けっこう年上っぽいですけど。」
「私が生を受ける前からモンカソー家に仕えてくれていますからね。」
三十年以上はモンカソー家の使用人として働いている、ということか。
アストリエスの付き人はオリーネという女。カルリスティアの世話係は……ユリス、という女だった。それに王城にも、公爵邸や侯爵邸にも、サント・ライナ城にも、この城にも使用人が大勢いる。
貴族は常に大勢の召使いを伴う……この点に関してだけは、少年が想像していた中世ヨーロッパ風の世界観における「貴族」の姿そのものだった。
まあその分だけ、少年には想像するに難い額の金銭を払っているのだろうが。
「貴族のヒトって、けっこうおカネのやりくりが大変ってイメー……想像してるんですけど。実際はどうなんですか。」
このような質問をされるのは予想外だったようでクリオは少しだけ目を見開いていたが、すぐに穏やかな笑みに戻る。
「徴収した税を何にどれだけ充てるかを考え、細かく計算しなければなりませんからね。とても大変ですよ。」
「でもクリオさん、近衛騎士隊長じゃないですか。そっちの仕事もやってるんですか?」
しかしクリオは「いいえ。」と続けて、漆喰塗りの構造物へと琥珀色の視線を当てる。
「私や軍務卿方のように王宮に職をいただいていると、どうしてもそちらまで十分に気を遣れません。なのでほとんどの仕事は妻や家族に任せていますね。」
そういえば、とハヤトは昨日のことを思い出す。狩りの許可をもらうために地下書庫へ下りた時、クリオとフィルリスティア夫人が何やら話していたことを。
「もしかして昨日、フィルリスティアさんと布告がどうって話してたのもですか?」
「ええ。穀物の増産を進めるために色々と試しているところなんですよ。学園の先生方からもお知恵を拝借しています。」
「やっぱり税金を増やすため的な理由ですか。」
「もちろん。それに、民を富ますことは私たち領主の義務ですから。」
そう言って微笑みかけてくるクリオにハヤトは、ああ、と内心で唸る。近衛騎士隊長としてもモンカソー男爵としても、彼は本当に立派な人物だ。
けれどもそれが、貴族として「当たり前」なのだとすれば。
「ルイナークもいろいろ訊きたいんじゃない?」
「えっ、ああっえっと……あの、クリオ卿。今ほど師と話されていた、穀物の増産についてお尋ねしてもよろしいでしょうか……?」
「いいですよ。地下書庫でゆっくりお話ししましょう。」
「あっありがとうございますっ!」
焦げ茶色の瞳をこんなにもきらきらと輝かせているルイナークが素直になれず、必死に加護の扱いの訓練をさせるほどまで追いつめていたモノの一端なのだとしたら。
__貴族って大変なんだなあ。
こんなにも安易な一言で片づけていい道理は無いが。しかし黒い髪の少年ではもはや、彼らの「やらなければならないこと」がどれほどのことかまったく想像がつかない。
柔和な雰囲気を纏うアストリエスがあの灰色の瞳の奥に、実のところは何を映していたのかわからなかったように。
仲間として一緒にいてくれているカルリスティアが、頭の中に何冊の本を収めているのか計り知れないように。
ただ、やはり……。
「ふむ。そろそろ食事が出来上がる頃ですね。」
「……まだ朝の支度、なんにもやってない!」
「僕もまだですっ!」
「では今日はこのくらいにしましょう。ハヤトくん、痛みが引かないようならすぐに城の者に言ってくださいね。」
「はい、そうします。」
穏やかに微笑む彼にも、慌てて自分の物をまとめる彼にも。黒い髪の少年は思う。
__貴族って大変なんだなあ。




