陽㉟
家を出た瞬間、凛と澄み切った空気が頬を打った。俺の生まれ育ったた町とは違い、海沿いのこの町では雪が降る事はほとんどない。それなのにむしろ、風は冷たく感じる。
この年末年始は帰省しないと決めたのは自分だったのに、今になって故郷の雪景色を懐かしく感じた。
それでも今日ばかりは、浮足立つ気持ちを抑える事ができなかった。何と言っても、久しぶりに有希さんに会えるのだから。
待ち合わせた駅前の喫茶店には、既に有希さんと琴ちゃんの姿があった。そして、悟さんも。
「よぉ、久しぶり」
そう言って悟さんは笑顔を浮かべた。
「お久しぶりです。今、何してるんですか? 急に辞めちゃったから心配してましたよ」
「その節は迷惑かけて悪かったな。今は色々、準備中なんだ」
「準備中って?」
「悟さん、店出すんだって」
質問に答えたのは琴ちゃんだった。
「実家がN町の商店街の中にあるから、そこを改装して店を開くの。その準備中なんだってさ」
「琴ちゃん早いよ」
勿体ぶって話すつもりが大筋を琴ちゃんに説明されてしまい、悟さんは苦笑した。
「元々小さな煙草屋やっててさ。ちょっとした店舗みたいなスペースはあったんだよ。改修してもそんなに広い店にはならないんだけど、こじんまりとした店で無理なくやってやろうと思って」
悟さんは『フィオーレ』ではイタリアンをやっていたが、元々はフレンチの料理人として修行を積んでいる。新しく開く店では近隣で採れる地元の食材をメインに使った、和風フレンチのような料理を予定しているのだそうだ。
「高杉シェフもそうだったけど、俺のお師匠さんが元々そういう料理を出してる人だからな。椎茸をそのまんま炭火でグリエして、バルサミコ酢かけてはいどうぞ、みたいな。素材のもつ旨味をどうシンプルに引き立てるか、っていう。それには元々の素材がそれだけ美味くなきゃならないんだけど。お前らに言ってもわかんねえかもしれないけどさ」
『フィオーレ』で働いていた時を呼び起こすような、ちょっと見下したような言い方をしたけれど、自分の理想とする料理の話をする悟さんの目はキラキラと輝いていた。そんな悟さんの姿に、俺は少し安心した。『フィオーレ』に関係した人々は、みんな行方知らずだったり、急に辞めてしまったり、あまり良い状況にはないんじゃないかと勝手に思っていたのだ
元々悟さんは近い内に実家に戻って店を開く予定だったのだが、お師匠さんの兄弟弟子である高杉シェフが『フィオーレ』を開店するに当たり、手伝いに来る事になったらしい。ところが高杉シェフが辞めてしまい、自分の後輩である健ちゃんも辞めてしまったので、頃合いを見て退職を決めたのだという。
「申し訳ないけど、あのまま稲谷さんの下で働く気にはなれねえもんなぁ。給料だってちゃんと払われないし」
「え、給料貰えてなかったの?」
何気なく飛び出した爆弾発言に、三人とも身を乗り出した。
「そうだよ。七月ぐらいから給料減らされて、辞めた九月は給料日過ぎても一円も振り込まれなかったんだ。それもあってな。稲谷さん来た後も、健がいる内は面倒見なくちゃいけないと思ってたけど、健も辞めちゃったし。もういいか、って馬鹿馬鹿しくなっちゃってさ」
「でも稲谷さんは毎日のようにキャバクラ行ったりしてたでしょ?」
「稲谷さんはそれなりに給料貰ってたんじゃねえかな? あとはほら、上手いんだよ。絶対に自分一人では行かないから。必ず業者呼び出して、払うのも業者。幾ら遊んだって自分の腹は傷まねえんだから、毎日だって行くよ」
「何それ。高杉シェフの事はさんざん賄賂だってけなしてた癖に」
「じゃあ、悟さんだけ給料貰えてなかったんですか?」
「いや、久坂もずっと金貰えてなかったと思うけど」
日に日に生気を失っていく久坂マネージャーの姿が思い浮かんだ。アルバイトもろくに使えず、毎日のように遅くまで働き――その結果が給料の未払いなのだとしたら、本当にむごい話だ。
「つうか久坂の方が悲惨だよ。あの店、稲谷さんに変わった頃から久坂が社長って事になってたからな」
「社長? マネージャーが?」
正確には久坂マネージャーの名義で新たに会社を立ち上げ、その会社が『フィオーレ』の運営を行うという契約を親会社との間に結んでいたらしい。久坂マネージャーはあの少ない売上の中から取引先や水道光熱費、俺達アルバイトの給料も払っていたのだそうだ。
とはいえ売上なんて減る一方だったから、実質的には久坂マネージャーが自腹を切って払い続けていたも同然らしい。
そう言われてみると、アルバイトを削って一人で店を切り盛りしようとしていたのにも頷ける。久坂マネージャーは親会社を理由にしていたけど、単に経営者として自分の意志で、少しでも人件費を抑えようとしていただけだったのか。
「素性の怪しいサラ金みたいなところからも金借りてたみたいだぜ。しょっちゅう携帯電話に変な電話かかって来てたし。結局どうにもならなくなって店は潰れたけど、借金やらなにやら責任を負うのは店を運営していた社長の久坂で、親会社の方は無傷ってわけだ」
「そんなのって……いいんですか?」
「そりゃあ俺だって道義的にどうかとは思うよ。けど、店を立て直す事さえできりゃあ、儲かった金は全部久坂のもんだ。そんな甘い言葉に乗っかった久坂だって馬鹿だったんだよ」
何の連絡もなく失踪した久坂マネージャーに対する怒りが和らぐ訳ではなかったが、なんとも言えない憐みのような感情が込み上げてくる。
あの人はサービスの面だけ見れば一流の人に見えたけれど、それ以外の部分に関しては本当にどうしようもない人だったのかもしれない。
「……じゃあ、やっぱり俺の先月分の給料は貰えそうにないかな」
「あんまり適当な事は言いたくねえけど、多分キツいんじゃねえの? 俺だって未払い分は未だに貰ってねえし。親会社も取引先に対しても知らぬ存ぜぬで押し通してるみたいだぜ。まぁ、確かに表立って資本関係にあった訳じゃないからな。今となっちゃ、『フィオーレ』の店ごと会社までいっぺんに消滅しちまった感じだろ。裁判起こして争えば貰える可能性もあるけど、久坂に払える金が残ってるとは思えないし、弁護士雇う費用の方が嵩みそうだよな」
悟さんの言葉には慈悲のかけらも無かった。
十二月まるまる一月分――週末だけだったから、金額にすればせいぜい六、七万ぐらいだろう。乃愛にカンパした上に給料が入らないのは流石にキツい。乃愛の事はともかく、バイトの件については親に事情を説明して、援助をお願いする必要がありそうだ。




