陽㉞
大学に入学以来、かれこれ三年近くこの町で生活しているというのに、新舞浜、という地名を耳にしたのは初めてだった。
部屋に戻ってパソコンで調べて、この町の外れにそういう砂浜がある事を始めて知った。ただし、俺の部屋からは十キロメートル近く離れている。車でもあればすぐの距離だろうけど、俺も乃愛も車を持っていない。自転車なら行けない距離ではないけれど、俺一人ならばともかく乃愛と一緒では難しいだろう。
結局色々検討した結果、面倒だけれども駅から路線バスで行ってみる事にした。
バスは手前の新舞浜ハイツという公営の宿泊施設までしか通じていなかった。海が近いような潮の香りはほのかにすれど、姿を見ることはできない。強い風に晒されながら歩くこと更に数分。ようやく立ち並ぶ防風林の切れ目が見えてきた。
「あ、あそこ」
「なんだよ。来た事あるんだろう?」
「だって車で来るのとじゃ全然違うもん」
乃愛の言葉が、妙に引っかかる。乃愛はここに、いつも車で来ていたのだ。
初めて訪れる新舞浜は想像以上に広くて、百台ぐらい停められそうな駐車場からインターロッキングの遊歩道が長く伸びていた。海に伸びる遊歩道は三本あって、突き当りは円形の広場になっている。
「陽君、何座?」
「魚座」
「そっか、早生まれだっただったんだね」
聞くだけ聞いておいて、乃愛は一人ふらふらと歩いて行ってしまう。
海無し県に住んでいたお蔭で海そのものに馴染みがない上、冬の海に来るのは初めてだった。小さい頃に幾度か連れて行って貰った夏の海水浴のイメージとはうって変わって、閑散として人影はなく、波も高く荒々しい。時折強く吹き付ける突風が細かい砂を巻き上げ、その度に目を閉じずにはいられなかった。
風を物ともせず、乃愛は海に向かって伸びる三本の遊歩道の内、一番奥の遊歩道を進んだ。突き当りは円形の広場になっていて、一抱え以上もある大きな星型の四つの石碑が並んでいる。その内の一つの前で、乃愛は立ち止まった。
「これが陽君だね」
指し示された「H」の文字を左右に引っ張ったようなマークを指して、乃愛は得意げに言う。
「これ、魚座のマークでしょ?」
「そうなの? 俺、全然わかんないよ」
「えー、普通自分の星座のマークぐらいわかるでしょ?」
そう言って乃愛は笑った。
目の前の星が魚座という事はつまり、周囲にある他の三つはまたそれぞれ別な星座を表しているらしい。良く見てみれば、途中通り抜けてきた他の遊歩道の先にも、四つずつ十二個の同じような石碑が並んでいる。
「お前は?」
「私は牡牛。ずーっと反対側」
指差した方向へと歩き出す乃愛。砂を踏むさく、さく、という音が耳に心地よい。気を付けて歩いたつもりなのに、すぐさま靴の中は砂が入った不快感でいっぱいになった。
たどり着いた牡牛座の石碑の前で、乃愛は足を止めた。その顔に浮かんだ表情で、俺はこれが目的だったと、なんとなく悟ってしまった。何があったのかは知らないが、目の前の石碑は乃愛にとって深い意味を持つものなのだ。
「新舞浜に行きたい」
と乃愛は言ったが、厳密には新舞浜にある十二個の石碑の内、この雄牛座の石碑こそが目当てだったのだろう。
今と同じように石碑を見上げた思い出が、乃愛の胸の中にはあるのだ。その時はきっと、俺ではない他の誰かと一緒に。それを思うと、こうして乃愛と一緒にこの場にいるのが場違いな気がして、居たたまれない気持ちでいっぱいになる。見てはいけないものを見てしまったようで、俺は海へと視線を投げた。
俺の知っている海とは違い、冬の海は白く荒立っていた。遥か遠くには漁船なのかタンカーなのか、巨大な船の黒い影がポツンと浮かんでいる。
海から吹きつける風に、身体を抱くようにして身を縮める。遮るものがないせいか、海辺は容赦なく、全身の熱を奪う。
本調子でない乃愛の身体にとっては良くないかもしれない。そう思い立ち、ふと目線を戻した瞬間、両手を合わせる乃愛の姿が目に入った。
乃愛は静かに、祈るように目を瞑っていた。
思わずため息が漏れるのを、止めようがなかった。
何を祈ってる?
喉元まで出掛かった言葉を、生唾とともに飲み込む。
聞くまでもないし、聞くべきではないのだろう。乃愛が祈るとすれば、対象は決まっている。
乃愛にとってはこの星が、名前すらない命の墓標なのだろう。
「……乃愛、そろそろ行こう」
溜まりかねて声をかけた俺に、頷きを返した乃愛の目は、予想外に澄み渡ったものだった。




