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乃愛㉕

 眠るのが、恐怖だった。

 眠りに落ちれば、必ずあの夢を見る。

 暗い、真っ暗な闇の底から、私を呼ぶ声。

 彼の声だと思い、一心不乱に声の主を追い求める私に、声がやがて鮮明になる。


「ママ」

「ママ、助けて」

「怖いよママ」

「やめて。殺さないで」

「どうしてママ」

「助けてママ」

「ママ」

「ママ」


 悲鳴をあげて飛び起きると、そこには必ず陽君の顔があった。心配そうに眉根を寄せて、でも優しい目で私を見ていてくれる。

 そうして私は、それが夢だったことにようやく気付く。

 夢から醒めても、胸の痛みは決して消えてはくれない。後悔と罪悪感が私の胸を突き破ろうとどんどんどんどん大きくなって、私を苦しめる。

 この二年間で、私はあまりにも多くの罪を重ねてしまった。

 彼との関係を始めてしまったのもそう、続けてしまったのもそう。きっと私の知らないところで、彼の奥さんや娘さんを傷つけた事だろう。私が「彼に会えない」と悲しむのと同じように、彼の家族は「帰ってこない」と心配していたのかもしれない。

 この二年間、ただただ彼と『フィオーレ』に費やしてきたというのに。

 私の前からは、どちらも失われてしまった。

 私に残ったのは、決して消せない大きな傷だけだ。

 でもその傷は、本来であれば生まれてくるはずだった命と引き換えに残ったもの。たくさんの未来が失われる代わりに、私に残されたもの。

 私はきっと、この先ずっとこの傷を抱いて生きていかなくてはならない。

 絶対に、忘れるわけにはいかない。


「大丈夫か?」


 陽君は決まって飲み物と、水で絞ったタオルを差し出してくれる。

 たった一人で部屋に閉じこもっていたら、どうなっていた事だろう。考えずにはいられない。

 でもいつまでもこうしてはいられない。陽君の好意に甘えている訳には行かない。


「気にすんなよ。落ち着くまで……気が済むまではいてもいいからさ」


 思いとは裏腹に、静かに語りかける陽君の声は、じんわりと私の心に染みて広がっていく。

 最初からこんな人を好きになっていれば良かったのに。今になってみればよくわかる。私は生まれて初めて出会った年上の魅力的な男性に対し、運命の恋だ愛だと浮かれていただけだ。冷静になって振り返ってみれば、彼がどんなに自分勝手だったのかが思い出されて、悔やまれる。一貫して人を思いやっていたのは、陽君の方だ。りーちゃんやモモちゃん、有希さんや琴ちゃん、キッチンのみんな、そして私――陽君はずっと人を見ていた。ただひたすらに誠実に、人を思い、案じていた。

 悔やまれるとすれば、彼との出会いでも、関係でもなく――私の浅はかさばかりだった。


   ◇   ◇   ◇


 手術後は二三日安静に、と医者から忠告された。逆に言えば二三日過ぎれば今まで通りの生活に戻っていいという事だ。

 それなのに私の体からは赤ちゃんだけではない何か大事なものが削り取られてしまったようで、倦怠感が全身を包み続けた。二三日過ぎても重い身体は、手術のせいなのか、それとも何か他の原因があるのか。


「朝飯買いに行こうぜ。冷蔵庫空っぽだ」


 あの手この手で口実を作る陽君に連れ出されるようにして、私は外に出た。

知り合いにばったり出くわしてしまうのが怖くて気が向かなかったけど、外の冷たい空気に晒されていると心まで風に吹かれるようで、悪い気分じゃなかった。手袋をしていても指先がかじかんだけど、顔を照らす陽の光の優しさも同時に感じられた。


「いっつも馬鹿みたいに混んでる癖に、ガラッガラなのな。正月はやっぱりみんな実家帰ってんのかな?」


 それまでと同じように、陽君はずっと当たり障りの無い話をしてくれる。天気がどうとか、何が食べたいなんていうどうでもいい話の中に、時々、正月明けすぐに訪れる後期のテストや課題の話題が混ざる。

 陽君はさりげなく、私に前を向かせようとしていた。そのさりげなさがとっても温かくて、でも私をいたたまれない気持ちにした。


「乃愛さ、どっか行きたいところとかねえの?」

「行きたいところ?」

「うん。どうせバイトもないし、しばらく暇だろ? せっかくだからどっか行ってみようぜ。気分転換も兼ねてさ。ディズニーランドとかどう?」

「ディスニー?」


 思わず頓狂な声をあげてしまう。


「ディズニーランドは冗談だけどさ。俺ももうそんなに金ないし。でもお前遊園地とか好きそうじゃん」

「遊園地は好きだけどさ」


 流石に今は、そんな気分にはなれない。

 それっきり会話が途絶えてしまって、コンビニ袋を下げたまま、私達は黙って歩き続けた。

途中、橋から見下ろした春井川の水面がキラキラ煌めいて、眩しかった。雪融け水が流れ込んでいるのか、川の流れはいつもより多くて、いかにも冷たそう。

こぼこぼと音を立てて流れる春井川を見下ろす内に、私の胸の中に何かが去来した。私の行きたいところ。好きな場所。こんな穏やかな流れじゃなくて、もっと激しくて、思い出すだけで切なくなるような、あれは――


「陽君」


 私は言った。


「私、海に行きたい。新舞浜に行きたい」

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