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陽㉝

 『フィオーレ』の事は気がかりだが、乃愛にとっては自身の身体こそ最優先すべき問題である。

 一月六日、俺は乃愛とともに病院まで向かった。バスを乗り継いで入り口まで送り届けたところで、乃愛とは一旦別れた。待合室で待っていると言ったのだが、流石にそこまではさせられないと乃愛が固辞した。

 終わったら連絡する、連絡が来たら迎えに行くと約束し、俺は病院を離れた。

 とはいえ、手術にどのぐらいの時間が掛かるのか見当もつかない。あまり遠くへ行く気にもなれず、周辺をブラブラと歩いた。この辺りは旧市街で、元々は小さな個人商店が軒を連ねていたのだろうが、今となってはほぼシャッター街と化している。手頃なカフェや喫茶店でもあれば良いのだろうが、そんな便利なものも見当たらない。

 昭和の名残を感じさせる大手電機メーカーやブリキの看板や、古びて動かなくなったガラクタのような星柄の自動販売機に哀愁を感じつつ、ぶらぶら歩いていると、少し離れた線路沿いに小さな公園を見つけた。この寒い中、背中を丸めるようにしてベンチに座る男がいる。多分、俺より年下だろう。高校生ぐらいにも見える。ジーンズに薄手のブルゾンと見るからに薄着で、自転車にでも乗る分には良いのだろうが、ああして寒い中じっと待つには辛い服装に見えた。

 見ている内に自分が寒気をもよおして、近くの自販機でホットのウーロン茶を買った。自販機と建物の影で風除けしながら温まっていると、同じぐらいの年頃の女の子がやってきた。かと思いきや、深刻そうな雰囲気で何やら男に対して話している。男はこの世の終わりが来たとでもいうような真っ青な顔で、女の子の頭を撫でたり、声を掛けたりしている。女の子は泣いているようにも見える。

 そうしてしばらく居た後、二人は連れ立って歩いて行ってしまった。

 女の子のやってきた方角は、ちょうど乃愛が今行っている産婦人科の方だったようにも思える。もしかしたらあの子も生理が止まってしまって、診察を受けに来たのではなかったか。男の方は一緒に入って待つ訳にも行かず、近くのこの公園へ。診察の結果、やっぱり妊娠していました。私達高校生なのにどうしよう。なんとかするから心配するな、なんて――そんな想像を膨らませてしまうのは、自分が今、まさにこういう立場に置かれているからなのだろうか。

 乃愛の事があってから調べたが、日本の十代の人工中絶は一日五十件以上に上るらしい。百人に一人よりも多い割合で、人工中絶を行っている女の子がいるのだ。そこから鑑みると、乃愛はもう二十代ではあるものの、決して珍しいとは言えないのだろう。

 「決してマイノリティーではない」という事実は、罪の意識を大きく軽減させる。もし乃愛がこの先自分の決断を後悔し、苦しむような事があれば、そんな説明をしてやろうと思っていた。

 でも一方で、授かった命だからと覚悟を決めて、産む人だっている。遡れば、有希さんだってその内の一人だったのかもしれない。あんな汚い熊のような男の子どもを産まなければ、有希さんはもっと幸せな人生を過ごせていたかもしれない。

 ただその場合、悠斗君はこの世に存在しないのだ。

 もし過去に戻る事ができて、やり直す事が出来たなら――有希さんは産まないという決断をするだろうか? 多分、いや、絶対にしない。有希さんは産むだろう。あの旦那さんと結婚する事はやめたとしても、悠斗君を産もうとするはずだ。

 しかしそれは今の悠斗君を知っているからこその話であって、乃愛のお腹の中に授かった命がどんな人間に育ち、乃愛とどんな生活を送るかなんて、誰にも見通す事はできない。そうである以上、今現在の立場から想像できる範囲の予測でもって、判断するしかない。

 大学に在学中で、『フィオーレ』も無くなった今、乃愛本人には何ら生活の糧を得る手段もない。相手の男もまた、協力するどころか責任を取る様子すらない。そのような状況で想像できる未来なんて、知れたものだ。全ての要素が、一つの判断しか現さない。誰がどう考えたって、結論は決まっている。

 仮にそれが倫理的、人道的に問われるのだとしても、「決してマイノリティーではない」以上、罪に捉われ続ける必要なんてないのだから。

 乃愛から連絡が入ったのは、病院に送ってから約三時間が過ぎていた。想像以上に早く終わったので、駆け足で戻らなくてはならないぐらいだった。

 乃愛は驚いたけど、帰り足にはタクシーをえに呼んだ。結果的に良い判断だった。乃愛はまだ完全には麻酔が抜け切ってはおらず、気を抜くと足元がふらつくような状況だったから。

 俺の部屋に着いた後も、乃愛は俺のベッドで死んだように眠り続けた。夜になって起きてからは「喉が渇いた」と言い、用意しておいたスポーツドリンクを少しずつ、たっぷり時間をかけて飲み干した。

 乃愛の顔には濡れた髪の毛がべったりと張り付いていた。この時期、暑いわけでもないだろうに乃愛の全身は汗だくだった。


「大丈夫か?」


 俺の声に全く反応せず、乃愛の目は何もない中空を見つめていた。


「陽君、私……」


 乾ききって半分張り付いたようにも見える唇から、言葉が零れる。


「……赤ちゃんがね、、ママやめて、助けてって……。でも、私は……その子の首に手を掛けて……」

「乃愛、やめろ。気のせいだ。悪い夢でも見てたんだろ?」


 俺は咄嗟に乃愛の肩を掴んで、揺さぶった。正気とは思えなかった。


「私……殺したの……。自分の赤ちゃんを……私……」


 しかし乃愛は、幾ら呼びかけてもうわ言のように繰り返した。

 大きく見開かれたその目から、つうと涙が伝った。

 乃愛はもう、限界だった。

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