陽㉜
そして、一月四日がやってきた。
さんざんだらけて過ごした正月を終え、俺は『フィオーレ』で初仕事。乃愛は別な産婦人科に行くという重要な用事のある大事な日だ。
改めて話し合った訳じゃないけれど、暗黙の了解として、三が日を過ぎたらもう一度違う病院を受診すると決めていた。今度こそ、乃愛の希望を医師に伝えなければならない。
「じゃあ、頑張って」
「乃愛こそ。頑張ってこいよ」
俺達は一緒に部屋を出た。
愛車のクロスバイクに跨って、一路『フィオーレ』を目指す。ずっと不満が溜まる一方だった店だけど、一週間近く空くと恋しさも募る。ましてやあそこは、有希さんとの思い出の店だ。そういえばクリスマス以来、有希さんに連絡もしてない。仕事が終わったら、報告も兼ねてメッセージを送ってみようか。
新年らしく妙に浮ついた気持ちで俺は店へと着いた。エスケープを停め、裏口のノブを回す。しかし、不思議な事にドアノブはぴくりともしなかった。まるで鍵でも掛かっているみたいだ。
時間はもう九時である。少なくとも久坂マネージャーはとっくに来ている時間だ。何かあったのだろうか。それとも、何か事情があって施錠しただけなのか。
怪訝に思いながら正面に回る。店内も明かりが点いている様子は見られない。なんだかおかしい。そう思いながら見ると、入口の前に人影があった。シルバー人材センターの斎藤さんだった。
「おはようございます。開いてませんよね? どうかしたんですか?」
問いかける俺に、斎藤さんは呻くような声とともに、貼り出された一枚の白い紙を指差した。
《閉店のお知らせ》
勝手ながらこの度、当店は閉店させていただく運びとなりました。
二年弱という短い間ではありましたが、これまでのご愛顧に心から感謝申し上げます。
略儀ながら書面をもちましてご挨拶申し上げます。
店主
余りの衝撃に、自分の目が信じられなかった。
閉店?
いつかそうなるんじゃないかという予感はしていたものの、まさかこんなにも唐突やってくるとは思いもしなかった。せめてもう少し段階を踏んで、事前に告知があった上での事だと思っていた。それがまさか、働いていた自分達ですら知らない内にこんな事になってしまうなんて。
我に返ると、すぐさま携帯を取り出した。店にかけても、当然誰も出る者はいない。となれば、久坂マネージャーの携帯だ。しかし、「おかけになった番号は現在電源が入っていないか、電波が届かない場所にあります」というメッセージが繰り返されるばかりで、全く繋がらない。意図的に電源を切っているとでもいうのか。
「クソっ」
悪態をつく俺の横で、
「酷い店だと思ってはいたものの、最後まで酷い店だねえ。この調子だとあちこちに迷惑掛かってるだろうな」
齋藤さんはまるで他人事のような口ぶりで、感慨深そうに言った。
「私はセンター通してるから、働いた分はセンターがなんとかしてくれるだろうけど。お兄さんたちは大変だねえ。先月分の給料貰えないかもしれんよ」
齋藤さんの言葉に、事態は想像以上に深刻だと言う事に気づかされた。そうか。久坂マネージャーが電話に出ないのも、きっとそういう事だ。
しかし、今の乃愛には言えない。
俺はまず、有希さんや琴ちゃんに連絡する事にした。とにかく現状を掴まなければ。
◇ ◇ ◇
『閉店ってどういう事? 倒産?』
『わからない。閉店って書いた紙が貼ってあった』
『久坂さんは?』
『わからない。斎藤さんにしか会えてない』
『給料貰えないの?』
『こっちが聞きたいよ。どうなるのかな?』
『業者さんの支払いとかは?』
『何もわからない』
『連絡とかしてるのかな?』
『俺だって連絡来てない。多分乃愛も』
『本社の人とか知ってる人いないかな?』
『悟さんなら知ってるんじゃない?』
『琴、悟さんの連絡先なら知ってるでしょ』
『悟さんに聞いてみる』
まるで伝言ゲームだ。
三人でチャットのようにやり取りしながら、帰路につく。ちょうど途切れたところで、部屋に着いた。
「あれ? お帰り。早かったね。どうしたの?」
乃愛は先に帰って来て、炬燵に入ってテレビを見ていた。
「うん。それよりも、そっちは?」
「うん。明後日……もう一回行く事になった」
「明後日か」
そんなに早く。乃愛は言わなかったが、それが何を指すのかは想像に難くなかった。
取り乱すわけでもなく落ち着いた様子を見せる乃愛に、心中胸を撫で下ろした。
「幾らかかるって?」
「十万あれば、足りると思うけど……」
「持ち合わせ、あんの?」
「正直言うと、今は足りてない」
「今はって……アテはあんのかよ」
「今は……ない」
「今はって。明後日の話じゃんか」
俺はため息をついて、クローゼットから五万円を取り出し、乃愛の前に置いた。
「返さなくていいとは言わない。その代わり、出世払いな」
「出世払いの使い方、間違ってると思うよ」
「細かい事言うなよ。困ってんだろ。とりあえず持っとけよ。使わなくなればなったで、返してくれればいいし。これで足りる?」
「うん。ありがと」
乃愛は素直にお礼を言って、五万円の財布の中にしまった。
「付き添ったりしなくていいのか? 一人で行ける?」
「心細いけどね。でも、仕方ないよ。辛いのは私じゃないし」
乃愛ではなかったら、誰だというのだろう。俺はそれ以上考えるのをやめた。
「俺、付き合うよ」
「付き合うって、仕事あるじゃん。陽君休んだら、また久坂さん一人になっちゃうよ」
「いや、ないんだ」
「ないって?」
言うべきか言うまいか迷ったものの、どっちにしても明後日まで隠し通せそうもないと思い、俺は『フィオーレ』が終わってしまった事を説明した。
「そんな……それで? 久坂さんは? 久坂さんもいなかったの?」
「いないっていうか、電話にも出ないんだ。電源が入ってないって」
「そんな」
乃愛は即座に自分の携帯を取り出し、耳に当てた。きっと久坂マネージャーにかけたのだろう。しかし、すぐに失望の表情に変わった。
「そんな……何の説明もなくいきなり……そんなのって……」
「とりあえず、様子を見ようぜ。今、琴ちゃん達も色んなところに連絡して、本社の人の連絡先とか当たってくれてるんだ。もしかしたら今朝急に決まって、俺達に連絡する暇も無かったのかもしれないし。明日にでも連絡くるかもしれないじゃん。だから」
慰めるように重ねる言葉も、最早乃愛の耳には届いていないようだった。
乃愛はそれっきり魂の抜け殻のように、心を閉ざしてしまった。




