陽㉚
乃愛を病院に送り出してからも、俺は一人ぼーっと部屋で過ごしていた。
昨日までがクリスマスだったなんて、信じられない。閑散としたディナーも、今思えば少し寂しそうだった葛西社長も、全てがずっと昔の出来事のようだ。昨晩乃愛が俺の部屋に現れてから交わした言葉は、それだけ濃厚な密度を持って俺の胸の中に降り積もっていた。
果たして本当に、乃愛は妊娠しているのだろうか。
彼女の為にも間違いであって欲しいと祈る反面、きっと妊娠検査薬は確かなのだろうな、などと冷めた想像をしてしまう。乃愛が混乱するのは仕方ないのだから、俺は出来るだけ平静に事態を受け止め、彼女にとって最善の道を選ぶ手助けをしようと思った。そう思えば思う程、まるで他人事のように心は冷めていく一方だ。
万が一妊娠していたとして、乃愛はどうするのだろうか? 話を聞く限り、産むという選択肢は限りなく現実的ではないように思える。産まないにしても、彼女一人で済ませる問題じゃない。
やはり一番の問題は、責任の所在だ。乃愛を妊娠させた相手をはっきりさせて、しっかりと責任を取らせる必要がある。乃愛にとっては気が進まないかもしれないが、やはり相手を聞きだすしかないだろう。全てはそこからだ。
病院で、乃愛はどこまで話してくるだろうか。少なくとも中絶する場合の相談ぐらいはしてくるだろう。手術の値段や日取りもわかるのだろうか。そう時間を置くとも思えないから、金額と日時がはっきりし次第、相手と話し合わなければ。
漫然と部屋の掃除や片付けをこなしている内に、意外と早く乃愛は帰ってきた。
「どうだった?」
訪ねる俺に対し、乃愛は小さく頷きを返した。
「おめでとうございます。妊娠三ヶ月です、って」
震える手で、小さなポラロイド写真のようなフィルムを差し出す。モノクロの抽象画のような台形の写真の中に、小さな黒い〇があった。
「これが……赤ちゃんなのか?」
俺の問いに、乃愛は再び黙って首を縦に振る。
急激な喉の渇きに襲われ、俺は唾を飲み込んだ。
「……それで?」
「次は二週間後にまた来てください、って」
震えるような声で、乃愛が答える。
「二週間後って……それだけ? あとは?」
「あとは……おめでとうございますって」
「おめでとうって」
言葉を無くす、とはこういう事を言うのだろう。
多くを交わさないまでも、病院で乃愛がどんな会話を交わしてきたか察しがついた。いや、彼女は何も話して来れなかったのだ。
そんな乃愛を責める事も出来ず、俺はただ絶句してしまう。
産婦人科の診察結果は、予想以上の重みを持って、乃愛に圧し掛かっていた。
乃愛と俺は、自分達の認識の甘さを痛感した。いや、俺ですらそうだったのだから、当事者である乃愛の心痛は察するに余り有るものがあった。
「どうしよう……」
「どうするも何も……もう一回、その相手と話すしかないだろ。病院行った結果を見せて、話してみるしか」
乃愛は頷きを返したものの、気が進まないのは明らかだった。
「もう多分……会えないもん。会ってくれないと思う」
「会えないって、そんなの許されるはずないだろ? 責任負うのが当然じゃんか。そんな逃げるような真似、許されるはずないだろ?」
「でももう……駄目なんだよ。もう多分、駄目なんだ」
俯いた乃愛の頬を、涙が伝った。多分、苦しいのは乃愛自身だ。乃愛だって、会いたくないと思っている訳じゃないだろう。一人で解決したいなんて思うはずがない。でも、そうは出来ない事情があるのだ。俺には話す事はできないような。
俺は唇を噛み締めた。それでは本当に、八方塞がりではないか。
「だってお前、じゃあどうするんだよ? まさか二週間待って、また病院行く気か? そんな事してたら、どんどん大きくなって……」
それ以上は言葉にするのは憚られた。
「だって……」
乃愛はしゃくり上げながら、白黒のエコーを差し出した。
「動いてるんだよ。私の中で、生きてるんだよ。頑張って生きよう、生まれようって。産まれてないかもしれないけど、生きてるの。あれ見ちゃったら、もうどうにもできないよ。私にはもう、どうすることもできない」
目の前に突きつけられたモノクロ写真を前に、俺は言葉を失った。
俺にももう、どうする事も出来なかった。
俺に出来るのは、泣きじゃくる乃愛の側にいる事でしか無かった。




