陽㉘
深夜に突然現れた乃愛に、俺は動揺を隠せなかった。
「どうしたんだよ。とにかく、中入れ」
理由も聞かず乃愛を部屋の中へと招き入れる。乃愛の身体は頭から着ているコートまで、降り積もり溶けかけた雪でぐちゃぐちゃで、一見して尋常でないのは明らかだった。部屋中走り回り、数少ない洗濯したタオルやバスタオルを出して、乃愛の身体に被せた。
一体今までどこをほっつき歩いていたのか、脱いだコートの中までびしょ濡れだった。すっかり身体は冷え切ってしまっていて、暖琴が効いた室内だというのに青ざめた唇でガタガタと震えている。
とにかく着替えさせて、暖めなくては。タオルでどうにかなるような状態ではなかった。
「とりあえずシャワーでも浴びろよ。そんなびちゃびちゃじゃどうしようもないだろ。今入れたから、風呂もすぐ貯まると思う」
乃愛は憔悴しきった様子で、遠慮するでもなく、嫌がるでもなく、ただただ促されるままにバスルームへと入って行った。
仕事が終わって、店を出てからかれこれ二時間近く経っていた。あの後程なく乃愛も店を出たとして、今までずっと外にいたとでもいうのだろうか。
一体どうしてそんな事をしたのか。少なくとも俺が先に店を出るまでは、いつもよりも元気がないなぁ、という程度だった。仕事が終わって、店を出て――それから何かあったと言うのか。こんな夜遅くに。
俺に思い当たるのはここ二日間のクリスマスディナーの不振ぶりと、葛西社長を送り出した後に久坂マネージャーに対して何か訴え続ける乃愛の様子だったが――今年のクリスマスディナーのクオリティーの低さには幻滅せざるを得ないとしても、彼女一人がここまで思い悩んだところで、もうどうしようもない。気持ちはわからないでもないが。
乃愛は俺とは違い、『フィオーレ』が一番忙しく、光輝いていた時代を乗り越えてきただけに、今の『フィオーレ』の凋落ぶりには忸怩たる思いがあるのだろう。
彼女にとっては唯一の心の拠り所であるはずの久坂マネージャーですら、今やかつてのやる気に満ち溢れた姿は見る影もない。頼りにしていた悟さんすら辞めてしまった今となっては、縋る相手すらいないというのが実情だろう。
そこまで『フィオーレ』に固執する必要もないと思ってしまうのだが、俺が有希さんの影を引きずりながら働き続けているのと一緒で、やはり乃愛なりの思い入れや願いもあるのだろう。でもいい加減、どこかで諦める決断も必要のかもしれない。いずれ乃愛とじっくり相談しようとは思うが――それよりも今は、とにかく乃愛を介抱することが先決だ。
風呂から上がるにしても、また濡れた服を着せたのでは意味がない。とはいえ、俺の部屋から乃愛が着られるような服が都合よく出てくるわけもなく――比較的女の子でもどうにかなりそうな新し目のジャージの上下とTシャツ、それから迷った末にパンツも一緒に合わせて風呂の前に持って行った。
「あの! これ、一応ジャージ、置いとくから。着れるようだったら着ろよ」
外から声を掛けて、キッチンへ向かう。何か体を温めるような物なんか作れるだろうか? 冷蔵庫を開けても大した物は入っていない。
インスタントラーメンとパスタの乾麺、牛乳、チーズ、卵とソーセージ……。カルボナーラもどきぐらいなら作れそうだけれど、乃愛は食べるだろうか。少なくとも稲谷さんのインチキパスタよりは美味しく作れると思うが。パスタよりはインスタントラーメンの方が、温まるかもしれない。あとは……。
そうこうしている内に、風呂から聞こえていたシャワーの音が止まった。細く開いたドアの隙間から腕が伸びて、置いてあったジャージを鷲掴みにする。
「乃愛、お前ラーメン食うか? それともパスタにする? カルボナーラみたいなのなら作れるけど」
しかし返事はなく、仕方がないので俺は鍋だけを火にかけた。何にしてもお湯を沸かす必要はあった。
程なくして、ぶかぶかのジャージを着た乃愛が風呂から出てきた。普段は踵のある靴を履いているせいか乃愛は俺とあまり変わらない背格好のイメージがあったが、腕と脚をくるくると捲って無理やり着た姿を見ると、やっぱり女の子なんだと再認識してしまう。すっかり化粧も落としてしまったようだが、かえって来た時よりも血色は良く見えた。
「……ありがとう」
ようやく声が発せられた事で、俺はほっと息をついた。少なくとも急場は凌げたようだ。
「具合悪くないのか? 熱とかあるんじゃないの?」
「多分、大丈夫。熱は元々高めだし」
「なんか食う? 腹減ってない?」
「大丈夫。ココアか何かあったら飲みたいかも。あと、物干しハンガーとかある?」
「物干しハンガー?」
「ほら、いっぱい洗濯バサミ付いた。普通のハンガーも何個か借りたいかも」
彼女の欲するところをようやく理解して、俺は余っているハンガー類をまとめて渡した。ココアは無かったが、もらい物のスティックコーヒーがあったので淹れることにした。
「この辺借りるね」
乃愛は勝手知ったる様子で濡れた衣服を次々と鴨居にひっかけ始める。
そうして俺達は、ようやく炬燵に入った。カフェ俺を啜って一言、「美味しい」と乃愛。
こうして乃愛が俺の部屋に来るのは、りー達の歓迎会をして以来だ。あれから半年近く経っている事になる。よく俺の部屋を覚えていたものだ。
「一体どうしたんだよ。びっくりしたぜ。何があったって言うんだよ」
「ゴメンね、驚かせちゃって。なんだかもうどうしていいかわからなくなっちゃって、気付いたら陽君の部屋まで来ちゃってて」
そういう乃愛は普段の調子を取り戻したように見えるものの、目は真っ赤に充血したままだった。
「飯、食った? 食ってないだろ。本当に食わなくて平気か? なんか食った方がいいんじゃないか? って言ってもラーメンとパスタぐらいしかないけどさ」
「なんか、おばあちゃんみたい」
突然乃愛が噴き出したので、俺は呆気に取られた。
「おばあちゃん。あの年代の人って、やたらと色んなの食べさせようとするのでしょ? これ食えあれ食えって。陽君もさっきから食え食えばっかり言うから。おばあちゃんみたいだなって」
「お前……人がせっかく心配してやってんのに」
「おばあちゃんもそう言うよね。人がせっかくって。冗談よ、ゴメンごめん」
乃愛はさもおかしそうにケラケラと笑った。




