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乃愛㉓

 翌日は冷え込んだ事もあって、前日のイブより低調だった。

 予約で入っていた四組八名。これがこの日の全てだった。

 流石に陽君も落胆を隠せなかった。前日のお客の反応を伝えていたにも関わらず、なんら改善の様子を見せない稲谷シェフに対する苛立ちもあったようだ。

 でも、私にとってはもう、どうでも良い事だった。

 昨日のメールを、彼はきっと見ているはすだ。写真だって。それなのに、彼は一切戸惑う様子すら見えない。お客が少ない事もあり、サービスの殆どを陽君と私に任せっきりにしたまま、キャッシャーでただただパソコンとにらめっこを続けていた。

 私にはもう、『フィオーレ』の事を案じている余裕は無かった。今はただ、自分の身体の事を考えなければならなかった。お腹の中に宿った命について、早急に彼と話し合わなければならなかった。

 ホール側の片付けが終わり、陽君が裏に下がったのを見計らって私は彼に歩み寄った。


「ねぇ」


 私が声を掛けても、彼は眉一つ動かさない。


「……どうして? どうして返事してくれないの? 私が今どんな気持ちか、わかってるでしょ?」

「やめないか、こんな所で。陽だっているんだ」

「陽君に聞かれて困るのは自分でしょ。大きな声出したっていいんだよ」


 叫びたくなるのを必死に堪え、私は震える声で言った。


「どっちにしたって、こんな所でする話じゃない。せめて陽が帰るのを待ってからにしてくれないか」

「だって、会ってくれないのはそっちじゃない。私だってこんな所で話なんてしたくないのに」

「仕方ないだろう。色々大変なんだ」

「大変大変って、毎日さっさと帰ってる癖に」

「店を出たからって、帰ってるわけじゃない。本社に行ったりもしなくちゃならないんだ。見ていてわかるだろう? 今は本当に瀬戸際なんだ」

「だからって、返事ぐらい返してくれたっていいでしょ? 私、ずっと待ってるんだよ。いつか返してくれるって、ずっと待ってたのに」


 冷静に、落ち着いて話さなきゃって思うのに、気持ちとは裏腹に言葉はどんどんきつくなっていく。

 私はポケットの中に入っていた体温計ほどのそれを、ぎゅっと握り締めた。紛う事なき証拠を、彼の前に突きつけてやろうか。これは私が、彼の子を身ごもっている証だ。全部彼が悪いなんて言う気はない。でも、責任は半々だ。彼にも半分は負うべき義務がある。

 私から気持ちが離れるのは悲しい。嫌いになって欲しくない。出来ればまた以前のように、二人で楽しい時間を過ごせる関係に戻りたい。でもそれよりも何よりも、今はお腹の中の命を最優先にしなければならないのだ。

 この命は、私だけの物じゃない。私と彼の間に宿った命だ。彼にも一緒に、これからについて考えてもらう必要があった。

 例えそれが、彼に嫌われてしまう結果になろうとも。


「わかった」


 彼は小さく息をついて、パソコンのモニターを見つめたまま、言った。


「終わった後、話そう。いつもの駐車場で待っていてくれ。すぐ行くから」


 元より、陽君もいる店の中で問答を続けるつもりはなかった。二人きりで話し合えるなら望むところだ。私は深く頷いた。


 しかし。

 彼は来なかった。

 雪が舞う中、一人指定された駐車場で彼を待った。待てども待てども、彼の車は迎えに来なかった。

 店を出て一時間が過ぎ、不審に思って『フィオーレ』に取って返したものの、既に店は真っ暗で、彼が出た後なのは明らかだった。


『どこに行ったの? まさか、帰った?』


 あまりにも非道な仕打ちに、かじかむ手で必死にメッセージをしたためる。どうせ返って来ないと半分諦めていたのだけど、意外と早いレスポンスで彼から返事が来た。


『もう終わりにしよう』


 浮かび上がった短いメッセージは、私を絶望の淵まで追いやるものだった。

 絶望? いや、失望か。

 生理が来ないと気づいた時から、最悪の事態は想定していたつもりだった。でも現実は想像を遥かに超える残酷さで、私の想定を軽く飛び越えて行ってしまった。

 私は雪の中、ただただ立ち尽くす事しか出来なかった。

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