乃愛㉒
あれ以来、彼とは音信不通の状態が続いていた。
電話をしても出てくれず、メッセージを送っても返信はない。
彼が私と距離を置こうとしているのは、明らかだった。
いや、そんな生温いものじゃない。彼は明確に、私を避け始めていた。
もう私も気づいていた。私は間違えた。選択を誤った。でも、私には彼を縋る他にはどうする事もできなかった。こんな事、他の人に相談できる話じゃない。当事者である彼以外に、私が頼る相手はいないんだから。
私はしつこいぐらい、メッセージを送り続けた。
『会いたい』
『話を聞いて』
『怖いよ』
『寂しい』
『お願い』
でも、言葉は全て空しく空虚さの中に消えていくばかりだった。
彼があまりにも無反応なので、これまでのように用も無く『フィオーレ』に行くのも憚られた。不意を突くような形で彼に会えば、どんな顔をするだろうか。想像するだけで怖くなった。
こうしている間にも、私のお腹の中では不安とともに、何かが育ちつつある。それでも諦めきれず、毎日のように祈りつづけるものの、月のものがやってくる気配はむしろ薄れる一方だった。
一人でいると最悪の事態ばかり考えてしまって、とはいえ、『フィオーレ』に生活の大半を捧げてきた私にとって、彼以外には縋る相手も無かった。大学にも一緒に授業を受けたり、食事をしたりする友達はいるものの、あくまで同級生の域を出ない。こんなに込み入った話を打ち明けられるような友人は、私の周りにはいなくなっていた。
私には本当に、彼しかいなかったのだ。
毎日のように、彼からなんらかの連絡が来る事を願い、携帯の画面を見つめ続ける日が続く。でも私の携帯が光る事は無かった。
ただただ悪戯に日々が過ぎて行くのが怖くて、私は勇気を出して町に出た。クリスマスソングが流れ、カップルが目立つ店内で、ぼーっとした意識の中で妊娠検査薬を買った。
買ったものの、実際にそれを使用する勇気は出なかった。検査をすれば、全てが確定してしまう。祈りも、願いも、全てが意味を失ってしまうかもしれないのだ。
それでもやっぱり検査する必要があった。このまま曖昧なままで神頼みを続けるのは、いい加減限界に近づいていた。
でも、やっぱり怖い。私一人で結果を受け入れるのは、恐怖でしかなかった。
私は再び、彼を頼った。
『検査薬を買ったよ。お願いだから、一緒に試してくれない?』
それでも彼が返事をくれることはなかった。
◇ ◇ ◇
ようやく再会できたのはクリスマスイブの『フィオーレ』だった。
「おはようございます」
顔色の悪さをごまかす為に、ばっちりメイクを施した顔で、いつも通りに挨拶をする。にもかかわらず、私を見た瞬間に彼はぎょっと目を見開いた。
まさか、来るはずがないとでも思っていたの?
「今日はとりあえず予約で六組だって。張り合いねえよなぁ」
呆然と立ち尽くす私に、陽君が笑顔を向ける。私も慌てて作り笑いで取り繕った。
陽君がいて、良かったと思った。
彼と二人きりのホールだったら、やりきれなかっただろう。
陽君は私の元気の無さを、クリスマスディナーが不調だからと受け取ったらしい。彼が私を避けているのも、陽君から見れば、
「マネージャー、また一段と生気無くなったよな」
となるようだ。
こういう時、陽君の鈍感さがありがたかった。
華やかなイブの夜には似つかわしくないどんよりと重い空気の漂うレストランの中で、陽君だけが明るく輝いて見えた。
フリーのお客を入れてもたったの十二組でイブのクリスマスディナーは終わってしまった。昨年は二日間で二百人近い人数をこなしたというのに。
お客の反応もいまいちだった。去年は晴れやかな表情で「また来年も」と言ってくれた人達も多かったというのに。
二十一時を待たずにノーゲストになってしまい、店を閉める事になった。
何もかもが空しかった。空虚だった。
私と彼が愛の巣のように愛おしんできた『フィオーレ』は、今や全く別の店に成り果てていた。
私はもう一度、彼にメッセージを送った。
『会いたい』
イブの夜だけあって、彼はすぐさま返事を寄越した。
『悪い。今日は帰る』
スマートフォンに表示された文字を見ても、涙すら出なかった。
彼の心は、完全に私からは離れてしまったのだ。
アパートに帰り、ふと思い立って検査薬の箱を開けた。
それまでは恐怖でしかなかったというのに、吹っ切れたようなすがすがしい気分だった。
もうどうにでもなれ、と自暴自棄にも似た気持ちだったのかもしれない。
説明書を読むと、棒状の検査薬の先におしっこをかければいいらしい。後はキャップをしめて、水平な所で約一分待つ。中央の丸い小さな窓に、赤紫色のラインが浮かび上がれば陽性。出なければ陰性。
その通りにおしっこをかけて、キャップをしめようとし――つい、笑ってしまった。
まだ、おしっこをかけたばかりだというのに。
既に窓には、赤紫色のラインが薄っすらと滲み始めていた。
本当にどうしようもない時、人は笑ってしまうらしい。
私は自嘲にも似た笑みを浮かべたまま検査薬を眺め、もう否定もできない程にくっきりと線が浮かび上がったところで、携帯で写真を撮った。
『やっぱり妊娠。話したい』
メッセージ添えて、彼に送信。
今頃彼は、自宅でイブの夜を楽しんでいるだろうか。




