乃愛㉑
彼にはなかなか打ち明けようが無かった。
最近疎遠になりつつあった事が、余計に消極的にさせた。以前は溢れんばかりに満ち満ちていた彼の愛情は、今やすっかり影を潜めつつあるのは疑う余地すらなかった。今の彼に、こんな重要な問題を持ちかけてもいいのだろうか。
以前の自信と責任感に満ち溢れていた彼が、懐かしく思える。当時の彼にだったら、何の迷いもなく即座に打ち明けていたはずだ。彼はきっと優しく、上手に私の不安ごと全てを受け止めてくれたはずだった。
でも、今の彼は――そう思ってしまう自分が、余計に悲しくなる。彼は彼のままで、別人になった訳でもないのに。
いつの間にか開いてしまった彼との距離が、底知れない深い谷間のようにも思えてしまう。
ただ生理が遅れているだけだったら。私の心配が杞憂になってしまえば、全ては解決してしまうのに。
私はどちらかというと順調に月のモノを迎えるタイプだ。ずれてもせいぜい二、三日。私の身体はごくごく計画的に出来ている。今までにこんなに遅れる事は無かった。
でも――と、言い訳のように私は思う。この一月、精神的に落ち込んでいる日が多く、食事もまともに喉を通らなかった。心の不調が、身体に不具合を来たしているに違いない。そう思おうとした。
それなのに、私の身体はいつまで経っても元に戻ってくれない。毎晩眠る前には生理用のショーツを履いて、祈るような気持ちで目を瞑る。お願いだから、朝起きたら始まっていますように。パジャマやシーツが汚れるぐらいいっぱい出してくれたって構いません。どんなに重くしても、のた打ち回るぐらい痛くてもいいから。お願いだから始まって下さい。
しかし、翌朝目を覚ました私は下腹部に例の重みや鈍痛がない事に気づき、恐る恐るショーツの汚れを確認するものの、私の身体はいつまで経っても何の兆候も見せてくれなかった。
その変わりに訪れるのは、吐き気や微熱をはじめとする不吉としか思えない変化ばかりだった。
「なんか、おっぱい張ってる?」
先に気づいたのは、彼の方だった。それまでついばんでいた先端から口を放し、確かめるように両の乳房を揉みしだく。
「ちょっとぉ」
彼の仕草が滑稽で、私は笑いながらその手を押さえた。
「いつもより大きい気がする」
無邪気な笑顔を浮かべてさらに触ろうとする彼だったけど、
「生理前だからかな?」
と私が言うと、ピタリと手が止まった。
「そういえば……生理って、いつ?」
彼にも何か思い当たったようだ。打って変った真剣な表情で、私を見つめる。
私は思わず唾を飲み込んだ。言うべきか、言わないべきか。躊躇していると、彼の目に探るような色を見つけた。そして私もまた、同じような目で彼を見ている自分に気づいた。
私達は、互いに嘘を見破ろうとでもするかのように、静かに見つめ合った。
「だいぶ……遅れてるんだよね」
「遅れてるって? いつから?」
彼の声のトーンが上がるのが、妙に癪に障った。その声音は明らかに喜びとは正反対のものだった。
「……二カ月……近く」
彼の顔が一気に青ざめ、凍りついた。ついさっきまで私に覆い被さって、愛の言葉を囁いていた男と同一人物とは思えなかった。
先ほどまで湿気と熱で蒸し蒸していた車内の空気が、一気に冷え切っていくのがわかる。
なんて目をしているんだろう。
私はそれ以上彼の顔を見る事が出来なくなってしまった。
「検査薬は?」
彼は無遠慮に、質問を続ける。まるで宿題を忘れた子どもを叱るような、詰問口調だ。
「してないよ」
「どうして?」
「どうしてって……怖いからに決まってるじゃない!」
自分の口から出たヒステリックな叫び声に、自分で驚いた。
そしてようやく自分でも自覚する。そうだ。私は怖かったんだ。
目を剥く私に対し、彼は押し黙ってしまった。どうして。どうして何も言ってくれないの? 私一人でずっと悩んでたのに。ずっと怖かったのに。不安を共有してくれるのは、あなた以外いないはずなのに。どうして。
口を開けば批難の言葉で溢れてしまいそうで、私は何も言えなかった。ただ涙を流しながら唇を噛み締め、彼が言葉を発するのを待つしかなかった。
彼はきっと、なんとかしてくれるはずだった。彼ならきっと、私を安心させてくれる。知恵を廻らして、なんらかの打開策を一緒に考えてくれるはず。彼の心が離れて行くのをそれとなく感じつつも、心の奥底で私はそう、信じていた。
でもあまりにも長い間、彼は何も言ってくれなくて。私はおっぱいもアンダーヘアも丸出しで泣いていた事を思い出して、情けなさに自己嫌悪に陥りながら衣服を整えた。それでも彼が、口を開く事は無かった。
「今日はもう、帰ろっか」
半ば自棄気味に私が言うと、彼は無言で車を発進させた。
結局彼は、いつもの駐車場に着いても一言も発する事は無かった。それどころか私の方を向くことすら無かった。まるで無愛想なタクシーの運転手のように無言で車を停めるばかり。それでも何か言って欲しくて私は彼の顔を見つめ続けたものの、やっぱりその願いは叶わなかった。
「ゴメンね」
車を降りる際、私はついそう言っていた。言ってから、自分がどうして謝ってるのか不思議でならなかった。
「いや、別に」
彼は無表情で応じ、あっさりと車を出発させた。今交わしたやりとりが余りにも馬鹿馬鹿しくて笑えた。
でもちょっとだけ笑った後は、すぐにまた涙が溢れ出した。
別に、って。
私はもしかしたら、取り返しのつかない事をしてしまったのかもしれない。
選んではいけない相手を、選んでしまったのかもしれない。
後悔が後から後から、さざ波のように押し寄せてきた。




