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乃愛⑳

 悟さんが辞めたのは、彼にとっても寝耳に水の話だったらしい。

 悟さんは唯一の戦友である彼にすら一言も相談も断りもせずに、突然辞めてしまった。

 高杉シェフ、健ちゃんに続き、オープンからいた『フィオーレ』のキッチンスタッフは全員辞めた事になる。しかも全員が全員、途中で投げ出すようにしていなくなってしまった。これが普通だなんて、絶対に言えないはずだった。明らかに異常事態だ。

 思えば悟さんが琴ちゃん達を通じて陽君の復帰を促してくれたのは、最後の置き土産みたいなものだったのかもしれない。それにしたってやっぱり、キッチンの要とも言える悟さんの離脱は私達も暗鬱とさせた。

 彼は、どんどんやつれて行く。ある日、ホールの片隅に大きなクモの巣を見つけた時、もう何かが手遅れになってしまったような、決定的な終わりが始まってしまったような気がした。気づけばホールのあちこちで、電球が切れたまま放置されていた。部屋の隅やカウンターの裏には、埃や汚れも目立つようになった。

 それでも暇な分、彼には少しずつ時間が増えつつあった。客も減り、キッチンやホールで取り扱う物品も減った。仕事の総量そのものが、減っていた。

 気づけば十一月も終わりに近づき、店の前のイチョウの木も裸んぼうになっていた。通りを歩く人影も減る中、いつもの高校生カップルだけがこれまで以上にベンチで身を寄せ合うようになった。

『フィオーレ』を包む雰囲気とは反比例するように、世間はきらびやかな明かりと華やかな賑わいを増しつつあった。


「今年のクリスマスは、何かやるの?」

「そうだね。クリスマスは稼ぎ時だから、せめてカップルディナーはやりたいかな」

「去年忙しかったもんね。今年も忙しくなるかなぁ」


 私は極力明るく言うものの、彼からは上の空のような返事しか返ってこなかった。

 忙しかった以前に比べると、仕事に関する会話は格段に減っていた。一時は抱き合っている間以外は、ずっと仕事について話しているような状態だったのに。キッチンの料理や人柄、アルバイトスタッフのスキル、教育方法、新しいドリンクメニュー、効率化の方法、広告宣伝の考え方、口コミの広がり、他店の噂や評判、等々。幾らでも話が尽きる事は無かったのに。

 稲谷シェフが来た当初は、彼は口癖のように「今は変革の時期だから」を繰り返し、今後の方針や夢を語り続けていたものの、最近ではすっかり先の話も聞かれなくなった。以前掲げていた『創作オリエンタルスタイル』は一体どこへ消えてしまったのだろう。

 店の話題がなくなると、私と彼の間には驚くほど会話が無かった。彼と私を結び付けるのは、『フィオーレ』でしか無かったと今になって気づかされた。

 会って、人の来ないような暗がりに車を停めて、私を抱いて、煙草を吸う。取り立てて大きな変化もないルーティーンのような日常。最近は海に行く事も、食事に行く事もなくなっていた。行為が終われば少しだけ会話を交わし――と言っても喋っているのはほとんど私ばかりだけど――解散する。

 会う頻度も、この頃は一週間に一回ぐらいまで減った。忙しくも無いはずなのに、会う事もない。例え会ったとしても、彼が帰る時間も以前より早くなった。最近では「そろそろ帰ろうか」と私が言うのも待たず、いつの間にか車は帰路についていたりする。彼は肉体的にも、精神的にも追いつめられているから仕方がないと割り切ろうとするものの、だからこそ私と一緒にいたいはずじゃなかったのか、という疑問が湧いてくる。そう、辛い状況だからこそ、私と会って元気を取り戻すんじゃなかったのか。いつの間に彼は、私と会う時間を削ってまで家路を急ぐようになってしまったのか。

 今日も彼は真っ直ぐ帰ってしまうんだろうか。以前のように求めてくれる事はないのだろうか。

 私は彼が心配で、少しでも彼の力になりたくて、ほぼ毎日のように店に通った。一人でホールに立つ彼の代わりに、裏で出来る仕事を無給で手伝ったりした。そんな私に彼は感謝を述べつつ、店が閉まれば何も言わずに、そのまま帰ろうとする。私が、


『今日は会えないの?』


 とメールを送らない限り、帰るのが当たり前みたいになろうとしていた。私が引き留めないと彼は残ってくれないのが歯がゆくて、悔しくて、悲しくて堪らなかった。私は自分からは言い出したくなくて彼のアクションを待つけど、待っても、待っても、彼が誘ってくれる事は無かった。

 毎日、胃が痛かった。

 胃がシクシク傷んで、食欲が無くなった。

 毎日彼の事を――彼と過ごした楽しい日々を思い出す度に、涙が溢れて止まらなかった。

 そうして幾つかの夜を重ねたある日の事、あまりにも食欲が無くて、身体も熱っぽく、気だるさを感じた。生活のリズムも何もかもが混乱を来していたから、遂に体を壊したのだろうと思った。

体調を崩した時は、とにかく栄養を採って寝るに限る。現金なもので、昔から熱が出ようが風邪をひこうが、食べ物が喉を通らなくなる事は無かった。胃腸の強さだけは両親に感謝している。何を食べたいとも思えないけれど、惰性のようにコンビニでおにぎりとスポーツドリンクを買って帰った。

 ところが、レンジでチンしたおにぎりを頬張ろうとした瞬間、なんとも言えない吐き気をもよおした。胸が詰まって、自分でも驚く。もしかして拒食症にでもなったのかな、とおにぎりをまじまじと見つめてしまう。

 もう一度鼻に近づけた途端、うっと嘔吐感が込み上げた。

 あれ、もしかして。

 三度試して、確信を抱く。食欲というよりは、どうも匂いに反応してしまうようだ。どうやらお米の匂いが駄目らしい。……って、あれ?

 私は壁に掛けたカレンダーを見上げた。

 ようやく私は、自分が最悪の事態を迎えようとしている事に気づいた。

 最後の生理から、既に一月半が過ぎようとしていた。

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