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陽㉔

 十月に入り、俺は『フィオーレ』に復帰した。


『仕事行ってないんだって? 辞めないって約束したのに』


 有希さんから来たメールは、元々背徳感に悩まされていた胸に見事にグサリと突き刺さった。

 有希さんとの約束もあったし、何よりも現実的な問題として、一月近くバイトをサボったのは金銭的にきつかった。いい加減、金を稼がなければならなかった。


「週末から行けます」


 と電話した俺に、久坂マネージャーは怒るでも感謝するでもなく、


「じゃあ、土曜日から頼むよ」


 と至って事務的に答えた。思い返してみれば、事務的なのは今に始まった事ではない。

 そうして俺は復帰を果たしたのだけど――入れ替わりに、悟さんが辞めた。

 高杉シェフや健ちゃんを想起させるような、突然の辞め方だった。九月三〇日に「辞めます」と会社に申し出、二度と顔を出すこともなく辞めてしまったのだそうだ。久坂マネージャーも稲谷シェフも完全に寝耳に水だったらしく、特に稲谷シェフはご立腹だった。


「あの野郎、ロクに引き継ぎもしねえで辞めやがったからなぁ。これじゃ俺も休めねえじゃねえか」


 さんざん喚き散らすものの、残っているのは久坂マネージャーと乃愛、俺の三人だ。誰一人として耳を貸すような人間はいない。

 加えて復帰して驚いたのは、久坂マネージャーのやつれようだった。たった一月見なかっただけにも関わらず、明らかに以前よりも痩せ細っていた。夏に「バイキングをやるぞ!」と得意げに語った頃のような覇気もなく、生気のない顔でただ淡々と訪れる客を捌いているような様子だった。

 有希さんと琴ちゃんをクビにして以来、平日はアルバイトを使っていないので、久坂マネージャー一人で回しているらしい。ランチとディナー合わせても五十人満たないぐらいの入れ込みでしかないのだが、それでも立て込む時は立て込む。ホールと言っても料理を出して下げるだけではなく、ドリンクや消耗品の在庫管理や発注業務もある。お店の全般的な数字の管理だって久坂マネージャーの仕事だ。更に、稲谷さんは皿洗いなんて絶対にやらないから、洗い場も久坂マネージャーの仕事になる。客がいる間は裏にこもる訳にはいかないから、洗い場もその他の雑務も、全部客のいない時間帯や、閉店後にやらざるを得ない。

 アルバイトが抜けて空いた穴は、久坂マネージャーが一人で埋めているのだ。もっとも、ちょくちょく乃愛も顔を出しては、手伝ったりもしている様子だけれど。

 いい加減この頃になると、久坂マネージャーに対する怒りや不満も薄らいできた。もちろん、現状を招いたのはマネージャー自身の資質の問題と言えなくもないから、全てを払しょくする事は出来ない。それにしても、見ていて悲壮感すら漂う程、憔悴しているのは確かだった。


「だから出来るだけ、私がいる時はサービスは任せてって言ってるんだ。出来るだけ裏の仕事に集中して貰おうと思って。陽君も協力してくれない?」


 大学では疎遠となっていた乃愛だったが、いざ俺が復帰すると、縋るように言って来た。もう突っぱねる理由もない。俺と乃愛の間も、急速に以前のように距離を縮めて行った。

 ランチの客数は減る一方。最近では三十人行かない日もある。ディナーはもっと惨憺たる有様で、一組二組という日もざらだ。

 以前はA・B・Cと三コースあったランチメニューも、キッチンが稲谷シェフ一人になってしまったので一コースに減ってしまった。しかし今頃になって親会社から「中華ではなく店に合ったイタリアンを出すよう」指導があったので、稲谷さんが渋々ながらパスタコースを調理している。元々イタリアンは専門ではないからわからないでもないが、それにしたって手抜きが酷い。パスタは乾麺ではなく冷凍のインスタント麺に変わってしまったし、スープやソースだって業務用のレトルトだ。サラダはカット済のものを取り寄せ、ホール側で盛り付けなければならない。ドルチェも同様だ。俺達でも出来そうな物ばかり。


「こっちは一人でやってんだからよう、そう面倒な手間掛ける訳にはいかねえんだよ。俺じゃなかったらやってらんねえぞ。もっといいもん出して欲しかったら早く人増やしやがれ」


 稲谷シェフは毎日のように電話口で怒鳴っている。相手が社長なのか、本社の担当者なのかは知らないが、この人にこれだけ大きな態度を許しておくのだから、会社の考えがさっぱり理解できない。

 それでも元々店の持つ雰囲気やインテリアに騙されてなのか「美味しかった。また来るわぁ」なんて感激して帰って行くご婦人もいる。もう俺達は困惑するしかなかった。

 週末になれば出勤し、久坂マネージャーのやつれ具合を恐る恐る確認しつつ、稲谷シェフには深く関わらないように距離を置いたまま、来るお客さんにはサービスだけでも良かったと言って貰えるように笑顔で頑張る。

 そんな毎日を過ごしていると、十一月からはキッチンに新しいスタッフが入った。斎藤さんという七十を数える元板前のおじいちゃんだ。シルバー人材センターから派遣して貰う事になったらしい。

 これで料理が改善されるかというと決してそういう訳でもなく、元々俺達でも出来そうなレベルの調理業務のほとんどを齋藤さんに丸投げし、稲谷シェフはサボるようになった。稲谷シェフをサボらせる為に、人を雇ったようなものだ。一方で久坂マネージャーは、日に日に疲弊していくというのに。


「ホント腐ってんな、この会社!」


 悪態をついたところで何もならない。最早会社が『フィオーレ』をどうしようとしているのかすらわからない。

 俺や乃愛が意気込もうとも、もうこの店はどうにもならない状況まで追い込まれているのかもしれなかった。

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