陽㉓
有希さんは遂に、アパートを引き払う事に決めた。
一時はさんざん借金取りが詰めかけて大騒ぎしていた以上、いずれは出なければならないと覚悟はしていたのだという。ただ、タイミングを計っていたというだけだ。毎日のように借金取りが張り込んでいる最中に引っ越しなんて始めれば、どんな妨害に遭うかわからない。弁護士とも相談した上で、一旦落ち着くまで様子を伺っていた。
一月以上経ち、弁護士と各債権業者との間でも書面等でやり取りを繰り返し、相手の攻勢もだいぶ落ち着いてきた上、『フィオーレ』もクビになってしまった。いい加減アパートは引き払い、悠斗君の通園する保育所も含めて、本格的に実家に異動しようと決めたのだ。
「母さんも一人にしておくのは心配だったから、ちょうど良かったのかもしれない」
引っ越し業者さんが次々荷物を運び出して行く部屋の中で、有希さんはそう笑った。
色々と力仕事もあるだろうから手伝うと申し出たものの、「そういうのは業者さんがやってくれるから、陽君はいてくれるだけでいいの」と断られてしまった。だいぶ収まってきたとはいえ、借金取りが有希さんへの接近を諦めた訳ではない。俺はもしもの時のボディーガードとして呼ばれたらしい。
とはいえ、全部が全部引っ越し業者さんがやってくれる訳ではない。荷物を詰め込んだり、まとめたりといった作業は多少なりとも発生する。事前に準備しておけば良いのだろうが、事情が事情なだけにそうもいかない。また、片付いた部屋から雑巾がけをしたり、掃除して綺麗にするのもマナーだ。有希さんは放っておくと全部一人でやろうとするので、流石に見過ごすわけにも行かずにあれやこれやと手伝う事になった。
全くのゼロからスタートした割に、専門業者さんを使った甲斐はあって、なんとか日没前には全ての作業を終わらす事が出来た。一切の家具が無くなってがらんどうとした部屋はモデルルームのように、無機質な空気で満たされていた。
引っ越し業者のトラックは先に実家へ向けて出発していた。一緒に着いて行かなくて良いのかと聞くと、とりあえず実家の一室に下ろすだけで別に開封して広げる訳ではないから、お母さんに任せておけばいいのだそうだ。
生活に必要な物のほとんどはもう実家で整えてしまった。今回はとにかく、アパートを空にするのが目的だから家具や荷物を実家に移せさえすればいい。後は時間をかけて、いる物といらない物を分類して。処分していくのだという。
「なんたってニートだから。時間はたっぷりあるからね」
悲壮感なんて全く感じさせない笑顔で、有希さんは笑った。
「俺も手伝おうか?」
「そこは遠慮しようかな。陽君几帳面だから、なんでもかんでも全部捨てられちゃいそう」
「有希さんが言うかな」
俺から見れば、有希さんの方がよっぽど几帳面だ。俺の荒れ果てた部屋を見せてやりたいぐらい。
部屋を出て、鍵を閉める。長年過ごした部屋なんだから、少しぐらい感慨深い気持ちもあるだろうと思うのだが、有希さんはこれからちょっとコンビニでも行って来るような雰囲気で、感傷を微塵も感じさせない。
「……後は? まだなんかあるの?」
「ううん。後は不動産屋さんに鍵返して、電気とかガスに電話連絡するぐらいかな」
「じゃあ、もうここに戻る必要もないんだね」
「そうね」
階段を下まで降りて初めて、有希さんは部屋を見上げた。きっと思い出は無数にあるはずだ。何もないはずはない。何よりも悠斗君は産まれてからずっとここで暮らして来たのだから。
「旦那さんに連絡はついた?」
「ううん。携帯も繋がらないし」
「そっか……」
雲隠れした旦那さんには連絡もつかず、アパートを引き払う事すら知らせる事ができない。一体今頃、どこで何をしているというのだろう。有希さんや悠斗君をこんな目に遭わせて。有希さんの実家まで巻き込んでいるっていうのに。
「帰り、どうする? 送る?」
「いや、大丈夫。自転車もあるし」
有希さんの車も荷物を積んだりで大変だろうと思ったから、今日は自分の自転車で来ていた。出来るだけ一緒にいたい気持ちもあったけれど、自転車を置いて行くわけにも行かなかった。
「そう。じゃあ、今日は本当にありがとうね」
「うん。いや、別に」
俺はそう言って、口を噤んだ。後に続く言葉が出て来なかった。
またね、と言えれば良いのだろうけど。恋人同士でもなく、同じ職場の同僚でもなくなった俺と有希さんに、次があるのだろうか。
いずれまた会う機会はあるだろうけど、それは一体どれくらい先の話なんだろう。一週間や二週間という事はないだろう。一か月先か、それとももっともっと先になるのか。
とりあえず引っ越しは終わるとはいえ、有希さんもこれから忙しくなるだろう。向こうで悠斗君の保育所を探さなければならないし、有希さん自身の職探しだって必要だ。ましてや旦那さんも失踪中だし、借金だってケリがついた訳でもない。
もしかしたらもう二度と、会えなくなってしまうのではないか。
そんな暗い予感がむくむくと膨れ上がって、胸が詰まった。
「陽君」
そんな俺に有希さんは、満面の笑顔で言った。
「またね」
すっと有希さんの右手が差し出される。俺は戸惑いながらも、有希さんの右手を握った。考えてみれば有希さんの身体に触れるのは、これが初めてだった。もう一年以上想い続け、長い時間を過ごしてきたというのに、指一本触れた事すらなかったのだ。
「また、遊びに来るから。琴の退院祝いもしなくちゃならないし。お店にも遊びに行くから」
有希さんはやっぱり、何もかも見透かしているようだった。
慰めるように言う言葉は俺の心にじわじわと染みて、温もりが広がった。本当に、子おころの底から有希さんが大好きだと思った。絶対失いたくない。高望みなんてしないから、このままずっと、途切れる事なく繋がっていたいと思った。
今にも泣き出しそうな顔で、有希さんの手を離す事が出来ずにいる俺を、有希さんは優しく見守ってくれていた。
有希さんの手は想像していたよりもずっと小さく、そして固く強張った、母親の手だった。
「有希さん……」
ようやく俺が言葉を取り戻したのは、有希さんの車が出発した後だった。
「有希さん、俺は有希さんが……」
いなくなって初めて、一番伝えたかった気持ちが吐き出される。途端に後悔に襲われて、俺はその場に膝をついた。結局最後まで俺は、有希さんに気持ちを伝える事が出来なかった。これが最後のチャンスだったのかもしれないのに。もう二度と会えないかもしれないのに。
堪え切れなくなって、涙が溢れ、嗚咽が漏れた。不思議そうに眺めて行く親子連れがいたけれど、泣くのを止める事は出来なかった。
誰かを想って泣いたのは、今までの人生で初めての事だった。




