陽㉒
琴ちゃんの退院は九月十二日に決まった。
でも、琴ちゃんが『フィオーレ』に復帰する事は無くなってしまった。
退院する前日、久坂マネージャーがお見舞いに来たそうだ。その時に、こう告げられたのだという。
「琴ちゃんも知っての通り、今うちは経営状況が厳しくて……経費は極力抑えるようにと上からのお達しなんだ。最近客足が鈍いのも聞いてるだろうけど、平日のランチは三十人入ればいい方なんだ。だから」
だから、平日はアルバイトを使わないことになった。
琴ちゃんのメールで知らされた事態に、俺は狼狽した。取り乱さざるを得なかった。
その日の内に、俺は『フィオーレ』へと乗り込んだ。
挨拶も程ほどにキッチンを潜り、ホールでディナーの準備を進めていた久坂マネージャーに詰め寄る。
「一体どういう事なんですか!」
ただならぬ俺の剣幕に、久坂マネージャーは目を細めた。
「平日はバイト使わないってどういう事ですか! 琴ちゃんと有希さんをクビにするんですか! りーやモモちゃんの次は、あの二人をクビにしようって言うんですか!」
「陽君、やめて」
「乃愛」
いつからいたのか、乃愛が飛び出してきて今にも殴りかからんとする俺と久坂マネージャーの間に割って入った。
「だっておかしいだろ! 悪いのは琴ちゃんや有希さんじゃないだろ! あの二人はちゃんと一生懸命頑張って仕事してたじゃんか。客が減ってんのは誰のせいだよ。赤字の原因は誰なんだよ。言えよ!」
「陽君、やめて。マネージャーだって辛いの。マネージャーが悪いわけじゃないの。だからやめて。わかって」
「じゃあ誰なんだよ! 誰のせいなんだよ! 言ってみろよ! なんで一生懸命働いてきた人達をクビにしなきゃならないんだよ!」
「陽君!」
顔を両側から手で押さえつけられ、気づけば目の前に乃愛の泣き顔があった。
「お願い。今はそれ以上言うのはやめて。今はどうしようもないの。これしか方法が無かったのよ。だからお願い。もうやめて」
乃愛の涙にいたたまれなくなって、俺は店を飛び出した。
琴ちゃんや有希さんがクビだなんて、絶対おかしい。
クビにすべきは稲谷シェフじゃないか。あの人が来てからこんなにおかしくなったのに。全ての元凶は稲谷シェフなのに。
もう、『フィオーレ』で琴ちゃんや有希さんと一緒に働く事はできない。
琴ちゃんだって有希さんだって、大変な状況なのに。
そこで俺はふと、立ち止まった。
有希さん?
有希さんは今、一時間以上離れた実家からわざわざ『フィオーレ』まで通っていたのだ。店で働く事がなくなるとしたら、有希さんはどうするのだろう。もうこちらへ来る必要すらなくなってしまうんじゃないか。
過ぎった想像は、あまりにも絶望的なストーリーだった。
俺は教わったばかりの有希さん宛にメールを送った。普段は送っていいかどうか逡巡してしまうところだけど、この時ばかりは迷う余裕すら無かった。
『大丈夫?』
すぐに返事はあった。
『乃愛ちゃんから聞いた。ありがとう。でも、あんまり久坂さんを責めちゃ駄目よ』
既に乃愛から連絡が入っていたらしい。自分の事だというのに、有希さんはいつも通りちょっと年上ぶっていた。
『これからどうするの?』
今度は少し間が空いた。
『まだわからない。考え中』
自分で聞いておいてなんだが、それはそうだろう。多分有希さんだって、クビを知らされたのは昨日今日の話だ。
とにかくメールのやりとりをしている内に俺の心もようやく落ち着いてきた。有希さんとの数少ない繋がりを一気に引き裂かれたように感じていたが、こうしてメールは繋がっている。俺と有希さんは途切れてしまったわけではないんだ。
『陽君まで辞めちゃ駄目だよ。そのうち琴と一緒に遊びに行くから』
俺の心を見透かしたかのようなメッセージが届く。半ば自暴自棄になろうとしていた俺にとって、有希さんの言葉はあまりにも強い拘束力を持っていた。
りーやモモちゃんがクビになって、次は琴ちゃんと有希さん。俺と、乃愛だけが残ってしまった。
俺が辞めれば、バイトは乃愛だけになってしまう。一人にするのは申し訳ないと思う反面、なんだってあんなに久坂マネージャーの肩を持つんだと苛立ちも募る。乃愛は俺達の側にいるべきじゃないのか。同じアルバイトとして、琴ちゃんや有希さんを守るべき立場じゃないか。それなのに、あんな風に久坂マネージャーの肩を持たれたら――まるで俺だけが我儘を言ってるみたいじゃないか。
乃愛に対しても複雑な思いが膨らむ。
思い出されるのは入院中の琴ちゃんの言葉だ。
「乃愛ちゃんも色々大変だと思うから、陽君、もしもの時はちゃんと味方してあげるんだからね」
琴ちゃんはこうなる事を見越していたとでも言うのだろうか。こうなった際に、自分達よりも乃愛を優先しろとでも? そんなバカな。
もう俺には、どうしていいかすらわからくなってしまった。
その後、乃愛から『今週末はバイト入れる?』というメッセージが送られてきたが、無視を決め込んだ。大学では同じ必修科目で必ず顔を合わさざるを得ないのだが、そこでも敢えて目を合わせなかった。自分でも大人げない事はわかっていた。でも、乃愛には悪いとは思いつつも、久坂マネージャーに肩入りする以上、今まで通り接する気にはなれなかった。そもそも自分から連絡するのでもなく、乃愛を使うなんて卑怯だ。こうした一つ一つの些細なやり取りを通して、久坂マネージャーに対する不信感はどんどん募るばかりだった。
大学で見る乃愛もまた、どことなく落ち込んだような様子で――。向こうは向こうで、俺に対してどう接して良いのか、困惑しているようにも見えた。
なんだか馬鹿みたいだ。バイトなんて所詮ただの小遣い稼ぎなのに。体力をすり減らしたり、頭を使うんならまだしも、神経まで擦り減らして。こんな思いまでさせる『フィオーレ』に対しての不満はどんどん膨れ上がってくる。それでも俺は、まだ辞めるとも辞めないとも決め兼ねていた。
俺を『フィオーレ』に縛りつけようとするもの――それは有希さんと過ごした思い出であり、有希さんとの数少ない接点を失いたくないという思いだけだった。俺すらも店を辞めてしまえば、有希さんとの結びつきはどんどんどんどん希薄になって、いずれ消え去ってしまうのではないかという恐怖だ。
でも、俺が望む、望まないに関わらず、俺と有希さんとの距離はどんどん開いて行く一方だった。
『また、お願いしてもいい?』
有希さんからメールが届いたのは九月も下旬――俺がバイトに行かなくなって二週間が過ぎた頃だった。




