乃愛⑱
まだ夕方十八時前だった。九月とはいえ、夕暮れにはだいぶ早い。
こんな早い時間に彼と出かけるのは滅多になかったので、妙に気持ちが高ぶった。反面、あまりにも空が明る過ぎて、周囲の目が気になって仕方がない。彼の車に乗っているのを知り合いに見られたら、なんて言い訳をしよう。
いつもよりも深く助手席にもたれ、私は黙って彼が運転するのに任せた。なんとなく予想は付いた。
車は海に向かっていた。以前はよく来ていた新舞浜。そこには星座の形をしたモニュメントが並んでいる。思えば私達が初めて関係を結んだのもそこだった。
『フィオーレ』がオープンして間もない頃で、ゴールデンウィークを乗り越えた「お疲れ様会」という打ち上げの後だった。まだ不慣れな私達はゴールデンウィークの繁忙にコテンパンに叩きのめされて、高杉シェフや悟さんにもさんざんに怒られて、沢山の課題を貰って――そんな中で彼だけは「良く頑張った」「ありがとう」「乃愛ちゃんがいてくれて本当に助かった」と優しい言葉を掛け続けてくれた。
最初は酔っぱらった私を家まで送るはずだったのに、彼に愚痴や不満や疑問をぶつけている内に、そのままドライブに変わってしまい、連れてきてくれたのが新舞浜だった。
風が強く、でも晴れて星が綺麗な日だった。
クルクルと灯台から放たれる光の中、彼に手を引かれて星のモニュメントと夜空を見せられた。同じ山羊座だとわかっただけで、言いようのない運命を感じた。私達は抱き合って、どちらからともなくキスをして、寄り添うようにして車に戻った。その後は――。
そこから全ては始まったのだ。
明るい内に来るのは、初めてだった。
駐車場には何台か車があったけど、砂浜に人影は無かった。もしかしたら向こうもカップルで、車の中で愛を囁き合っているのかもしれない。
私が夕方の砂浜が新鮮で駈け出そうとしたところ、
「待てよ」
と彼に掴まり、二人でじゃれ合いながら星座のモニュメントがある広場まで歩いた。
海は穏やかで、白いさざ波が静かに打ち寄せていた。空は青く、でもどこか澄んで見えた。ついこの間までは煙るように濁った夏空だったのに。
「久しぶりだね」
「うん」
人目を気にしてか、彼はいつものように抱き寄せたり、キスしたりしてくれなかった。私はちょっとだけ物足りなくて、繋いだ腕に頬をすり寄せた。
「大丈夫なの? 仕事忙しいんでしょ」
「まあね。胃が痛くなるよ」
冗談めかして言ったけど、まるで冗談には聞こえなかった。
「琴ちゃんの代わり、どうするの? 平日有希さんだけじゃきついんじゃない? 新しくバイトとるの?」
「いや、新しく採用はしない」
「じゃあ、どうするの? 私も出来る限り協力はするつもりだけど」
彼は答えなかった。
私が琴ちゃんの入院を知ったのは、彼からのメールだった。
『琴ちゃんが入院した』
見た瞬間に心臓が飛び出る程びっくりして、何度も見返してしまった。
定休日だったけど、聞けば彼は店にいるという。私は授業が終わるのを待って、すぐさま『フィオーレ』に飛んで行った。
「驚かせて悪かったね。さっき旦那さんから連絡を貰ったよ。胆石らしい。特に命に別状があるような話ではないみたいだ」
彼の言葉にほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、彼は私を誘い出した。
車を走らせている最中も、彼はその後の対応について語ろうとはしなかった。
彼の様子にただならぬものを感じ、平然を装いつつも私は彼が話し始めるのを待った。きっと彼はまた、何か言いにくい事情を抱えているのに違いない。
遠くに見えた黒い点が、少しずつ大きくなってきていた。誰もいないと思ってたけど、犬の散歩をしている人がいるようだ。毎日こんな素敵な海沿いを散歩出来たら良いだろうなぁなんて、想像してしまう。
彼との関係は海で始まっただけあって、彼と一緒に海に来るのは好きだった。多分、海を見れば彼を思い浮かべずにはいられないぐらい、今の私の中では海と彼は切り離せないものになりつつある。
もし――もし彼と一緒に暮らすような事があるとすれば、海に近い部屋がいい。ふと、そんな考えが頭を過ぎった。この近くなら尚更いい。朝でも、昼でも、夜でもいいから、二人で散歩しよう。毎日海を見ながら、手を繋いで歩くんだ。
そんな日がいつか来るとしたら、だけど。
「鈴木さんには辞めて貰おうと思って」
あまりにも自然に言うから、私は自分の耳を疑った。
「今、なんて言ったの?」
「鈴木さんには辞めて貰う。琴ちゃんにも。だから新しく採用する必要はないし、琴ちゃんの病気も問題ない」
「どういう事? 何言ってるの? じゃあこれからどうするの? 平日来れる人いなくなっちゃうじゃない」
「僕がいるよ」
彼は平然と、言った。
「平日はアルバイトは使わない事にする。だから、乃愛や陽に来てもらうのもこれからは週末だけだ」
彼の言っている意味がわからなかった。彼の考えがわからなかった。私の方を見ようともせず、海を見つめる彼は、まるで知らない人になってしまったようだった。
「何考えてるかわからない」と言った陽君が思い浮かんだ。
そうだ、陽君だ。
「何言っているの? そんなの……それはまずいよ」
「まずいって?」
ようやく彼がこちらを向く。以前、稲谷シェフが来たばかりの頃に話した時と同じ、決意と使命に溢れたような、厳しい表情をしていた。
私は言葉を飲み込んだ。まさか、「有希さんをクビにしたら陽君が納得しない」なんて言う訳にもいかなかった。きっと彼も、そんなのは先刻承知のはずだ。理解し、覚悟した上で言っているのだろう。
でも、琴ちゃんと有希さんをクビにしたら、陽君も一緒に辞めてしまうかもしれない。そしたら――本当に『フィオーレ』は彼と私だけになってしまう。幾らなんでも、私だって毎日仕事に出る訳には行かない。しかし、私が手伝わなければ彼一人っきりになってしまう。今だって決して楽ではないのに、更に負担が増したら、彼はどうなってしまうんだろうか。
「ねえ、だって大変でしょ? 平日朝から晩まで一人だなんて。幾らお客さん少ないからって、一人じゃやりきれないじゃない。無茶よ」
「それでもやるしかないんだ。会社からの命令だ。赤字が改善されない以上、人件費は出来るところまで削減する。そうじゃなきゃ、店を潰すしかない」
「そんな……そんなのって」
言葉が無かった。
これから起こる事態は目に見えていた。有希さんと琴ちゃんがクビになるとすれば、陽君はりーちゃん達の時とは比べようがないうくらい怒り狂うだろう。今度こそ彼と陽君の溝は決定的なものになってしまうかもしれない。きっともう、私なんかにはどうしようもない。
そうまでして酷い思いをしても、彼の負担は減るどころか増えるのだ。平日はたった一人で、ホールの仕事をこなさなければならない。加えて経営的な雑務もある。彼の心や身体はどうなってしまうんだろうか? 私に彼を救う事が出来るんだろうか?
「私……私は、信じてるから。私に力になれる事があるなら、なんでも言って。私はあなたの味方だから」
「ありがとう、乃愛」
彼はそう言って、この日始めて私を抱き締めてくれた。
いつの間にか空は、夕暮れを迎えようとしていた。
オレンジと紫のグラデーションのちょうど境目に、一際輝く大きな星が光っていた。




