陽㉑
「陽君ごめん。ちょっと手伝ってくれる?」
有希さんに呼ばれて和室に行くと、天袋から何かを取り出そうとしているところだった。あの高さでは有希さんには無理だ。
「どれ? その箱?」
「そう、その奥の。うん、それそれ。重いよ、ゆっくり。私も支えるから」
妙に重みのあるそれを背伸びして引き出す。俺のすぐ隣で有希さんも精一杯身体を伸ばして、手を添えてくれた。有希さんの髪の毛が触れそうなぐらいこれまでになく近い距離で、俺はどぎまぎしてしまった。
「これ、何?」
「うん、前に大事なものを入れて、上げといたの。もしかしたら家まで入ってこないとも限らないでしょ? 見つかりにくい所って思って」
有希さんはそう言って箱を開けた。中からは保険証券なんかの書類が出て来た。後は繰越になった古い通帳。年金手帳。家計簿なのか日記なのか、ノートが数冊。有希さんの物らしきアクセサリーのケースが幾つか。そして――。
出て来た一枚の写真に、俺は思わず顔を背けた。悠斗君の入園式のものだろう。制服を着て黄色い帽子を被った悠斗君の隣に、見慣れないツーピースを着た有希さん。反対側には、ダークスーツ姿の男が写っていた。一瞬しか見ていないが、パーマをあてた茶髪が特徴的な、熊のように体格の良い男だった。
きっとそいつが、有希さんの旦那さんなのだろう。
ずっと気にはなっていた。琴ちゃんも、妻である有希さんですら「どうしようもない男」と言ってのける旦那。そうは言ってもきっと、有希さんの相手なんだからそれなりに外見ぐらいは整っているんだろうと思っていた。中身も意外と機転の利くビジネスマンで、ただ女好きで自分勝手で性格が悪い、そんなキザっぽいヤツ――それが俺の中で思い描く、有希さんの旦那さんだった。
さっきの写真に写っていたのは、あまりにも有希さんには不釣合いの男だった。あんな薄汚い男と有希さんが結婚をして、ましてや子どもまで産んだなんて。信じたくない現実だった。
箱に入っていたものを次々とボストンバックに移していた有希さんも、写真に気づいて一瞬手が止まった。しかしその手は写真ではなく他の物をつかみ出し、最後まで写真は取り出されないまま、箱の蓋は閉じられた。
「いいの? 大事なものなんでしょ?」
「ううん。悠斗にとっては大事かもしれないから、取っておいただけ」
それが最後の荷物だった。
元通り小奇麗に整えられた部屋を、俺と有希さんは後にした。もしかしたら外で待ち構えているんじゃないかと思ったけれど、廊下には見渡す限り誰もいなかった。
俺達は無言で来た方向に向けて歩き出した。再び階段を降りる。階段で待ち伏せするような不審者もおらず、拍子抜けする程あっさりと、車まで戻ってしまった。
借金取りも毎日二十四時間見張り続けているわけではないだろう。たまたまタイミングが良かったのかもしれない。そう安心しかけた時だ。
有希さんがキーを回そうとした瞬間、隣のミニバンから降りてくる人影が見えた。あっと声を出す間もなく、運転席側のドアが開けられる。
「鈴木さんだな。こんにちは。ご苦労さん」
絵に描いたようなチンピラだった。上背は百九十センチぐらいあるんじゃなかろうか。ブラックスーツにサテンのシャツという格好で、サングラスの隙間から覗きこむように有希さんに視線を向ける。
「そうですけど、何かご用ですか?」
物怖じせず、毅然と言い返す有希さんに俺は驚いた。
「何かご用かって? そりゃああんたが良くわかってんだろう。まぁ、まずは今持ってきた荷物を見させて貰おうか」
男は無遠慮に後部座席に置かれたボストンバッグに手を伸ばそうとする。俺は慌てて手を伸ばし、バッグを手元に引き寄せた。
「なんだお前は? 邪魔すんのか?」
男がギロリと睨みを利かせる。生まれて初めて見る借金取りだった。内心では震え上がりながら、俺は負けじと言い放った。
「我妻法律事務所の吉沢と言います。今日は鈴木さんの付き添いでやって来ました。ご用があるのなら、私の方で対応させていただきます」
「我妻法律事務所?」
来る途中、有希さんが話していた弁護士の名前が確か我妻だった。咄嗟にそれを思い出したのだ。
「お話があれば、どうぞ。ただし、録音させていただきます」
口からでまかせでそれらしくスマホを突きつける。効果は抜群だったようだ。
「ふん。若造が粋がりやがって。またな」
男は呆気なく引き下がり、ドアを閉めた。途端、有希さんは間髪置かずに車をスタートさせた。
「ありがとう、陽君。結構やるときはやるんだね。感心しちゃった」
「いや、前に久坂マネージャーからクレーマーの対応した時の話を聞いた時があったから。それで……」
久坂マネージャーが前職のホテルマン時代、度々やくざやチンピラ紛いの暗に金品を要求しようとするクレーマーがやってくる事があった。そういう場合にはまず他の客の目に触れない別室に通し、相手より多い人数で相対した上で、「録音する」とレコーダーを差し出すのがセオリーなのだそうだ。彼らは言質を取られる事を嫌がるので、録音されると知った途端、深追いを諦めるというのである。
まさかそれが、こんな時に役立つなんて。
「陽君がいてくれて良かった。ありがとう」
有希さんはいつになく上機嫌だった。めでたく有希さんの役に立てたのは嬉しかったが、それにしても――朝家を出る段階ではただただ有希さんと二人のドライブが楽しみで仕方が無かったというのに、こんな事になるとは。
「でも、これからどうするの? いつまでもこんな生活するわけにはいかないんだろう?」
「うん。後は、弁護士の我妻先生と相談しながら決めるようになると思う」
再び『フィオーレ』の駐車場に戻り、俺は車から降りた。
むき出しの二の腕を、冷たい風が撫でる。いつの間にか夕陽が傾きつつあった。
「そろそろ悠斗君のお迎えの時間?」
「うん。もう行かなきゃかな」
話したい事は、もっともっとたくさんあった。でもこれ以上有希さんを引き留めるのは憚られた。
「有希さん、もし俺に力になれる事があるなら、遠慮しないで言ってくれよ。朝でも夜でもいつだって構わないから。俺、なんでもするよ」
別れ際に言うと、有希さんは今日何度目かの複雑な表情を見せたが、
「うん。じゃあまた借金取りが来たら呼ぶね。法律事務所の先生。今日は本当にありがとう」
おどけるように言い残し、行ってしまった。
今までにないぐらい二人きりの時間を過ごしたはずなのに、胸の奥にポッカリと穴が空いたようだった。
俺は……有希さんの役に立っているのだろうか。立てるのだろうか。
もっと強い力が欲しい、と思った。あの人が安心して頼ってくれるような、胸の中にある心配事や不安や迷いをためらいなく打ち明けてくれるような、強い人間になりたいと思った。
今の非力な自分が、歯がゆくて仕方がなかった。




