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陽⑳


 有希さんの陥っている「大変な事」というのは、以前から度々話題になっている有希さんの困った旦那さんの問題だ。

 有希さんの旦那さんは少し前から、家に帰らなくなっているのだという。

 元々パチンコや競馬、競輪といったギャンブルは好きだったらしいが、好きが高じてだいぶ大きな失敗をしてしまったらしい。積み重ねた借金はとてもじゃないがどうにかなるような額ではなく、取立ての手は職場にまで及び、仕事も辞め、たった一人行方を眩ましてしまったらしい。

 以後、借金取りは自宅アパートまで来るようになり、有希さんは今、一人息子悠斗君とともに車で片道一時間以上離れた実家に間借りをしているというのだ。

 そんな事態になって一月近く経つというのに、俺は何一つ知らないままだった。久坂マネージャーすら知らないのだという。知っているのはただ一人、琴ちゃんだけだったらしい。


「それで、実家は大丈夫なの? 結局突き止められちゃうんじゃない?」

「うん。もちろん実家にも来たんだけど、旦那が個人で作った借金だから。厳密には夫婦とか親戚だからって、返済義務がある訳じゃないらしいのね。保証人にでもなっていれば別なんだろうけど、私、全く関わってもいないし。その辺の事は、死んだお父さんの知り合いに弁護士さんがいて、色々間に入って調整してくれてて」


 実家にいる以上はなんとかなっている、という事のようだ。その代わり有希さんと悠斗君の二人でアパートにいると近所まで知らしめるように騒ぎ立てたり、身の危険を感じるケースも少なくないため、アパートにはとてもじゃないが住んでいられるような状況ではないのだという。

 取り急ぎ最低限必要な物は持ち出してきたつもりだったが、一月も経つと次から次へと足りない物が出てくる。一度アパートに戻って運び出したいが、借金取りやチンピラが待ち伏せしているかもしれない場所に女一人で戻るのは気後れしていたのだ。

 両親でも一緒に来られれば良いのだが、有希さんのお父さんはもう何年も前に他界。お母さんもあまり体が丈夫ではないらしく、ヘルニアを患ってからはあまり外に出ない生活が続いているのだという。月に一回は琴ちゃんの入院している協立病院にも通院している。有希さんがあまりにも手馴れていたのは年の功とかの問題ではなく、単純に協立病院にはお母さんを連れて通っているからだったのだ。


「別に、危険を冒してまで守ってくれなんて言わないから。ただ、変なのが来たら、近所にでもなんでも助けを求めて欲しいの。向こうも女一人ならともかく、男と一緒ならそう簡単に手出しはしないと思うから」

「わかった。大丈夫。絶対に指一本触れさせないから」

「反撃したり、対抗したりしちゃ駄目よ。余計に面倒な目に遭っちゃう。ただ、助けを呼んでくれるだけでいいんだからね」


 有希さんの言葉に、俺は深く頷いた。ただし、時と場合による。もし有希さんの身体に危害を加えようとでもしたら――刺し違えてでも守ってみせる決意だった。

 車は有希さんのアパートに着いた。四階建てで玄関側が通路になった片廊下の建物。マンションのように専用のエントランスがある訳じゃないから、これだと遠くからでも視認できてしまう。部屋に出入りすれば、一発だ。


「着いてきて」


 有希さんは駐車場に車を停めると、真っ直ぐ建物の端にある階段を目指した。


「一応エレベーターもあるんだけど。怖くって」


 有希さんの言わんとすることはわかった。エレベーターは密室な上に、移動先も詳らかである。借金取りが出口で待ち伏せしていたり、一緒に中に乗り込んできたりしたら、逃れようがない。

 俺は有希さんに寄り添うようにして、階段を登った。踊り場を曲がったその先に、悪い男たちが待ち伏せしているんじゃないかと思うと、知らず知らずの内に全身に力が入る。でも結果的に、心配は杞憂に終わった。

 有希さんの部屋は三〇六号室。こうして見ると、視認性の良い片廊下である事が逆に奏功しているようにも思えてくる。長い一本の廊下なだけに曲者の隠れるスペースなんてないし、これだけ外部の目に晒されていれば、廊下で襲い掛かってくることなんて不可能だ。

 三〇六号室は探すまでもなく、すぐにわかった。借金取りの猛攻を表すかのように、玄関ドアにべこべこの凹凸がついていたからだ。きっと何度も叩いたり、蹴ったりしたのだろう。見るも無残な状態だった。

 有希さんは急ぐ様子もなく鍵を開けると、至って普通に部屋の中へと入った。俺も後へと続く。玄関のドアがガチャリと音を立てて閉まると、部屋の中は真っ暗になった。カーテンも全て閉め切られているのだ。そう思ったのもつかの間、有希さんの手がパチッとスイッチを弾き、部屋中が明かりで満たされた。


「電気、点けちゃっていいの?」

「別に泥棒じゃないんだから」

「でも、ほら。気づかれちゃうかもしれないじゃん」

「どっちにしても、もし見張ってるんだとしたらもう気づかれてると思う。だったらこそこそしたって無駄でしょう? 陽君、良かったら座って待ってて。荷物まとめちゃうから」


 上がって良いものか判断に迷い、玄関で立ちすくんでいた俺を、有希さんはリビングのソファーへと招いた。リビングと言ってもダイニングスペースに無理やり小ぶりのソファーを置いたような、こじんまりとした部屋だ。

 あんまりじろじろ見るのは失礼だと思いながらも、視線は勝手に部屋中をさまよってしまう。夜逃げのような状況を想像していたからもっと雑然としているのかと思っていたら、室内は意外なぐらいこざっぱりと片付いていた。

 ダイニングテーブルには悠斗君用の子ども椅子があり、側の壁にはA二サイズぐらいの大きなコルクボード。そこに悠斗君が作ったであろう七夕飾りや絵、幼稚園のお便りらしきものが几帳面に掲示されている。

 ソファの向かいにはテレビが。隣にはカラーボックスが一つあって、中からおもちゃらしきものが顔を覗かせている。これも悠斗君の物なのだろう。

 有希さんの部屋は本当に家族が暮らしているのか疑わしい程に簡素で、目に映る物は悠斗君に関わりあるものばかりだった。旦那さんらしき影は、微塵も感じられない。元からこういう家なのか、それとも今のような状況になってしまったからこそ、旦那さんの影は消えて無くなってしまったのか。

 部屋は他にもリビングの隣に和室が、奥に寝室があるらしく、有希さんはボストンバックを片手に行き来している。こんなに整然と片付いて、落ち着いた生活をしていたのだろうに、自ら選んで結婚した相手とはいえ、旦那さんの行動一つでこそこそと夜逃げのような真似をしなければならないなんて。

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