第3話 知らないはずの記憶
「以前 お会いしたときのお話を覚えていらっしゃいますか?」
レオンハルトの問いかけに
私は思わず言葉を詰まらせた
以前の話?
そんなことを聞かれても困る
だって私は
本物のエレオノーラではないのだから
「あの……どのお話でしょうか?」
できるだけ自然に聞き返してみる
レオンは穏やかに微笑んだ
「以前 おすすめしていただいた本のことです」
本?
本なんてすすめた覚えはない
当然だ
それは本物のノーラがしたことなのだから
「ようやく読み終えました」
「そうでしたか」
「ええ 結末が少し意外でした」
結末……
その言葉に私は思わず考え込んだ
この世界にも物語があって
そこには作者が決めた結末がある
でも 私が今いるこの世界はどうなのだろう
原作では
ノーラは婚約を破棄され
伯爵家は没落する
それが決められた結末だった
けれど
本当に変えられないのだろうか
「ノーラ?」
「あっ 申し訳ありません」
また考え込んでしまった
レオンは少し不思議そうに私を見つめた
「今日はいつもと雰囲気が違いますね」
心臓がどきりとした
まずい
本物のノーラと違うことに
気づかれたのだろうか
「そ そうでしょうか?」
「ええ ですが……」
レオンは少し考えてから微笑んだ
「以前より お話ししやすくなった気がします」
私はほっと息をついた
「それなら よかったです」
レオンは紅茶をひと口飲むと
思い出したように言った
「そういえば もうひとつ約束がありましたね」
約束?
まだ何かあるの?
「春になったら 一緒に出かけようとお話ししたことです」
私は思わず顔を上げた
お出かけ?
そんな話 原作にはなかったはず
「行き先はノーラが決めるというお約束でしたね」
困った
ものすごく困った
私はこの世界に来たばかりだ
どこに何があるのかなんて
ほとんど知らない
どうしよう……
そう思った瞬間だった
ふわりと
甘い花の香りがした
え?
目の前の景色が変わる
どこまでも続く緑の丘
その斜面には
色とりどりの花が咲き乱れていた
白い花
黄色い花
淡い紫色の花
春の風が吹くたび
花々が波のように揺れている
私はその丘に立っていた
いいえ
誰かの目を通して
その風景を見ているようだった
なんてきれいな場所……
そう思った瞬間
景色が消えた
「ノーラ?」
レオンの声で我に返った
目の前には
いつもの庭園が広がっていた
今のは……
本物のノーラの記憶?
それとも……
「どこか行ってみたい場所はありますか?」
レオンが優しく尋ねた
私は少し迷ってから答えた
「あの……お花を見に行きたいのです」
「花を?」
「はい たくさんの花が咲く場所へ」
レオンは一瞬驚いたような顔をした
「ああ……あの丘ですね」
「丘?」
「ええ 我が家の領地にある花の丘です」
私は思わず息をのんだ
本当にあるんだ……
あの景色が
「春になると 丘一面に花が咲くのですよ」
レオンは懐かしそうに微笑んだ
「子供の頃 母に連れられて何度か行きました」
「そうなのですね」
「ただ あの場所をご存じだったとは少し意外でした」
私は慌てて紅茶のカップに手を伸ばした
「ええと……以前 どこかで聞いたような気がして」
自分でも苦しい言い訳だと思う
けれどレオンは気にした様子もなく
うなずいた
「それでは 次のお休みにご案内しましょう」
「よろしいのですか?」
「もちろんです」
レオンは優しく微笑んだ
「ちょうど花が咲き始める頃ですから」
私は胸の奥が少し温かくなるのを感じた
本物のノーラが見ていたあの丘
どうしてあの風景が見えたのだろう
あの場所へ行けば
何か分かるのだろうか
そんなことを考えていると
レオンが立ち上がった
「そろそろ父上とのお約束の時間です」
「はい 今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
レオンは軽く一礼すると
庭園を後にした
私はその後ろ姿を見送りながら
小さく息をついた
なんとか乗り切った……
でも
本物のノーラは
どうしてあの丘を知っていたのだろう
そして
なぜ私にあの景色を見せたのだろう
その日の夕方
私は自室の窓辺に座っていた
庭園には春の花が咲き始め
使用人たちが花壇の手入れをしている
穏やかな午後だった
このまま何事もなく
毎日が過ぎていけばいいのに
けれど私は知っている
この伯爵家には
やがて大きな災難が訪れる
父は何者かに騙され
王家への背信を疑われる
そして伯爵家は没落し
レオンとの婚約も破棄される
原作では
すべてが手遅れになってから
真実が明らかになった
でも今はまだ
何も起きていないはず
そのときだった
廊下から父の声が聞こえてきた
「……その件については もう少し考えさせてほしい」
私は何気なく顔を上げた
「今すぐお返事するわけにはいきません」
いつもより少し低い声だった
やがて足音が遠ざかっていく
仕事の話だろうか
伯爵なのだから
難しい相談くらいあるはずだ
そう自分に言い聞かせた
けれど
胸の奥が
ざわざわして落ち着かなかった
まさか……
もう何かが動き始めているの?
私はゆっくり立ち上がった
もし原作と同じ未来が待っているのなら
今度こそ 手遅れになる前に気づかなければ
第3話 おわり




