第4話 春の丘に咲く花
朝から柔らかな日差しが窓辺に差し込んでいた
今日はレオンと花の丘へ出かける日だ
私は姿見の前で何度目かの確認をしていた
淡い水色のドレスに白いリボン
侍女が丁寧に整えてくれた髪には小さな花飾りが添えられている
「お嬢様 とてもお似合いです」
「ありがとう」
鏡の中の私は相変わらず美しい伯爵令嬢だった
けれど中身は三十七歳の普通の主婦
こんな格好でお出かけなんて
以前の私なら考えもしなかっただろう
それにしても……
デートよね これ
一応 婚約者同士なんだから
そう考えた途端
なんだか妙に緊張してきた
「お嬢様 そろそろお時間でございます」
侍女に促され
私は部屋を出た
階段へ向かう途中
廊下の向こうから父の声が聞こえてきた
「……ですから その件については慎重に進めたいのです」
私は思わず足を緩めた
父は誰かと話しながら歩いているらしい
「お気持ちは分かりますが……」
そこから先は聞き取れなかった
やがて二人の足音が遠ざかっていく
また仕事の話かしら
昨日も何か難しそうな話をしていたし
少し気になったものの
私はそのまま玄関へ向かった
今はレオンを待たせるわけにはいかない
屋敷の前には立派な馬車が停まっていた
その横にレオンが立っている
「おはようございます ノーラ」
「おはようございます レオン様」
レオンは私の姿を見ると
穏やかに微笑んだ
「今日はよいお天気になりましたね」
「ええ お出かけ日和ですね」
「では参りましょうか」
差し出された手に
私はそっと自分の手を重ねた
馬車に乗り込むと
窓の外には春の景色が広がっていた
芽吹き始めた木々
道端に咲く小さな花
冬の名残を残した山々
馬車が進むにつれて
街並みは少しずつ遠ざかっていった
「花の丘は遠いのですか?」
「それほどではありませんよ」
レオンは窓の外を見ながら答えた
「子供の頃は母に連れられて よく訪れました」
「そうなのですね」
「春になると 丘一面に花が咲くのです」
その言葉を聞いて
私は第3話で見た不思議な風景を思い出した
あの丘……
本当にあるのだろうか
しばらくすると
馬車は緩やかな坂道を上り始めた
そして
「着きましたよ」
レオンの声に
私は窓の外を見た
「……あっ」
思わず声が漏れた
目の前には
どこまでも続く花の丘が広がっていた
白
黄色
淡い紫
そして優しい桃色
数えきれないほどの花が
春の風に揺れている
この景色……
この前 見えたあの丘だ
なだらかな斜面も
遠くに見える一本の大きな木も
あの時と同じ
どうして本物のノーラは
この景色を私に見せたんだろう
「ノーラ?」
レオンの声で我に返った
「あっ はい」
「どうかしましたか?」
「いいえ……あまりにも綺麗で」
レオンは嬉しそうに微笑んだ
「気に入っていただけてよかった」
馬車を降りると
春の風が頬をなでた
花の香りがふわりと漂ってくる
「こちらへ」
レオンに案内され
私は花に囲まれた小道を歩き始めた
足元には小さな白い花が咲き
少し先には黄色い花が群れをなしている
「この花は何という名前なのですか?」
私が尋ねると
レオンは少し困ったように笑った
「申し訳ありません 私も詳しくはないのです」
「あら そうなのですか?」
「ええ 母ならすぐに答えられるのでしょうが」
思わず笑ってしまった
「レオン様にも苦手なことがあるのですね」
「もちろんですよ」
レオンも笑った
「ノーラは私を何でも知っている人間だと思っていたのですか?」
「少しだけ」
「それは困りましたね」
そんな何気ない会話が
不思議と心地よかった
これまでレオンとは
婚約者という関係でありながら
ほとんど話したことがなかった
正確には
本物のノーラとレオンは
母親たちのお茶会で時々顔を合わせる程度だったらしい
だから私にとっても
彼はまだよく知らない人だった
けれど今日
少しだけ距離が縮まったような気がした
丘の上には大きな木が立っていた
その木陰には
小さなテーブルと椅子が用意されている
「こちらで少し休みましょう」
レオンが椅子を引いてくれた
「ありがとうございます」
テーブルには紅茶と焼き菓子が並べられていた
花を眺めながらのお茶なんて
なんて贅沢なんだろう
私は紅茶をひと口飲んだ
「本当に素敵な場所ですね」
「そう言っていただけると嬉しいです」
レオンは少し遠くを見つめた
「実は 子供の頃はここへ来るのがあまり好きではなかったのです」
「えっ?」
意外だった
「母は花を眺めるのが好きで よく連れてこられたのですが」
レオンは苦笑した
「私はもっと走り回って遊びたかったものですから」
私は思わず吹き出した
「ふふっ なんだか想像できます」
「今ではよい思い出ですけれどね」
彼は花の丘を見渡した
「大人になると 同じ景色でも違って見えるものですね」
その言葉に
私は少しだけ胸が締めつけられた
私もそうだった
子供の頃には気づかなかったこと
大人になってから分かったこと
そして
もう戻れない時間
ふと 元の世界の子供たちの顔が浮かんだ
今頃どうしているのだろう
私がいなくなったことにも
気づいていないのだろうか
胸の奥がちくりと痛んだ
「ノーラ?」
気づけばレオンが心配そうに私を見ていた
「お疲れですか?」
「いいえ 大丈夫です」
私は慌てて微笑んだ
「少し昔のことを思い出していただけです」
「そうでしたか」
レオンはそれ以上尋ねなかった
その気遣いが
今はありがたかった
しばらく二人で花を眺めた
風が吹くたび
丘の花々がゆっくりと揺れる
まるで色とりどりの波が
丘を渡っていくようだった
「また来たいです」
気づけば私はそう口にしていた
レオンは少し驚いたようにこちらを見た
そして
「ええ ぜひ」
優しく微笑んだ
「今度は違う季節にもご案内しましょう」
「違う季節?」
「秋にはまた別の美しさがありますから」
秋……
その頃には
この世界での生活も変わっているのだろうか
原作の未来が
いつ動き始めるのかは分からない
でも
今日のような穏やかな時間が
少しでも長く続いてほしい
私はそう願った
⸻
屋敷に戻ったのは
夕方近くになってからだった
「今日はありがとうございました」
馬車の前でレオンにお礼を伝える
「こちらこそ 楽しい時間でした」
レオンは軽く頭を下げた
「またお会いできるのを楽しみにしています」
「はい 私もです」
馬車が遠ざかるまで見送ってから
私は屋敷へ戻った
玄関を抜け
広いホールへ足を踏み入れる
その時だった
「……では その方向で検討いたしましょう」
父の声が聞こえた
見ると
ホールの奥で父が一人の男性と話していた
上品な服装をした
見知らぬ中年の男性
父は私に気づくと
穏やかに声をかけた
「おお ノーラ お帰り」
「ただいま戻りました お父様」
「お出かけは楽しかったかい?」
「はい とても素敵な場所でした」
「それはよかった」
父は嬉しそうに笑った
そして隣の男性に向き直った
「こちらは娘のエレオノーラです」
男性は丁寧に頭を下げた
「お初にお目にかかります エレオノーラ様」
私は軽く会釈した
その時
父が男性の名前を口にした
「こちらは――」
その名前を聞いた瞬間
私の背筋に冷たいものが走った
え……?
今 何て言った?
私はゆっくりと男性の顔を見た
穏やかな笑顔
丁寧な物腰
どこから見ても
礼儀正しい紳士にしか見えない
けれど
私はその名前を知っている
原作で読んだ
何度も目にした名前
この人だ
父を騙し 伯爵家を破滅へ追い込む人物
私は思わず息を止めた
まさか……
もう出会っていたなんて
春の花に包まれた
あの穏やかな時間が
ずっと遠い出来事のように感じられた
原作の悲劇は もう始まっているのかもしれない
第4話 おわり




