異議申し立て
救国の聖女、アイシア・バステトの婚約が発表されると、国中が大騒ぎとなった。
とりわけ、専属護衛のレネは号泣する有り様で、アイシアの片想いを見てきただけに感慨深いもひと塩であるかのようだ。何度も「良かった」「おめでとうございます」と呟いて涙を拭うレネの隣で、彼女の番であるカミルは優しくその肩を抱いて、つむじに口付けを落としている。
番関係の二人を見てアイシアは静かに微笑む。番とは生涯で唯一無二の存在であり、出会うほうが稀とされている。出会ってしまえば、番同士が放つ香りや、無意識に惹き付けられるその気質に抗うことは難しいと言われている。であるので仲睦まじい二人が共にあるのは自然なことで、そこに微笑ましさを感じはするものの、自身とゼフュロスの間にある関係と比較するようなことはしなかった。
ゼフュロスとアイシアは番ではない。まずアイシアの恋慕があり、ゼフュロスが総合的に判断して了承したに過ぎない。多くの貴族同士の婚姻は、ゼフュロスが言っていた「役割を果たす」ことの側面が強く、またそうあるような振る舞いを求められる。
しかし、彼からは「愛情で繋がる夫婦関係」を求められた。──アイシアはただそれが嬉しく、そして望外の喜びに胸を震わせっぱなしでいる。ネリも交えた家族関係の始まりを、アイシアは密かに心待ちにするのであった。
国をあげて祝福ムードに包まれる一方、その影には泣き崩れる男たちの姿も多く見られた。
ほとんどは、婚約相手があの天空騎士団の長、ゼフュロスであることの諦め、そしてならば仕方無し、と納得をする者たちの涙だ。
だがいくつかは、年の差や家格の不釣り合い、ゼフュロスが再婚であること、また既に子どもがいることなど、様々な点を見つけ出して糾弾する声も聞こえる。
アイシアはそんな者たちと対峙するたびに、静かに微笑んで幸せそうに頬を赤らめるだけだった。──それだけで、ゼフュロスへの些末な中傷が小さくなる。
「なるほど、アイシア様は全てを承知の上なのか」
「どんな相手であっても微笑みを向けられるアイシア様は、さすが聖女と言ったところか」
そんな囁きと共に、声は日に日に小さくなって行った。
「アイシア様、大丈夫ですか」
婚姻式までひと月を切った頃。それはゼフュロスと共に招待された夜の観劇会の場で起きた。
貴賓席に現れたアイシアとゼフュロスにの姿を見た観客たちから祝福の拍手が沸き起こり、舞台の閉幕後も出演者や責任者が挨拶に訪れるなど、かなり慌ただしい状況であったのは確かだった。
「大丈夫です」
そういって微笑むアイシアではあったが、少しだけ咳き込んで苦笑する。アイシアを思いやって、ゼフュロスが飲み物でももらおうと目を離した隙に、一人の男がフラリと近づいてきた。
「アイシア様、この度はおめでとうございます」
声をかけてきた男に見覚えはない。だがアイシアはいつも通りに目を少し伏せて礼を述べる。
「バステト家の当主様が話しておられましたが、縁談が今でも届いておられるとか? 本当にウラエウス団長閣下でよろしいのですか? もっと若く家柄の良い男などいるでしょう」
目線を伏せていたアイシアが顔を上げると、ニタニタと薄気味の悪い笑顔を浮かべる男と目が合った。
「……私が望みましたので、何も問題はありません」
相手の目をまっすぐに見て答えるアイシアに、男が少しだけ怯む。だが次の瞬間には、顔を歪めて歯を剥き出して唸り声を上げた。
「生意気な……! 救国の聖女と呼ばれるようになって随分と得意気になっておられるようですが、所詮あなたは巫女風情! それなりの家柄の男に傅いて生きるべきだろう!!」
「君! 何を言っているんだ!」
「うるさい! 邪魔をするな! まだ話は終わってない!!」
激昂して大声を出した男に気づいた周りが割って入る。止めに入る男たちに中にゼフュロスはいない。アイシアが顔を巡らせると、彼はこちらの騒動に気づいて戻ってくる所だった。
「お逃げくださいませ。あの男は厄介ですわ」
隣に寄り添ってきた夫人がそっと耳打ちしてくる。その方がいいのだろうか。そう思って男を振り返った時、その男はジャケットの中に手を突っ込むと、短刀を引っ張り出してアイシアに突き付けてきた。
「聖女アイシア! 俺はこの縁談に異議を唱える!!」
「!」
男の血走った目を見た瞬間、アイシアは黒猫に完全獣化する。これまで人前で獣化などすることは無かったアイシアだったが、緊急事態と命の危機に晒されほぼ無意識で変化をしたのだった。
アイシアという標的を見失った男は、刃物を大声を上げながら短刀を振り回して暴れている。
「どこだ! 出て来い! 俺の申し入れを断った怨みは深いぞ!!!」
激高し叫ぶ男が短刀を滅茶苦茶に振り回している。その度に悲鳴が上がり、男たちの怒鳴り声や怒号が飛び交う。
そんな中で、ゼフュロスは冷静だった。遠くからでもアイシアの状況を目に入れつつ、静かに近づいて来ていた。彼女が小さな黒猫に変化された時は思いもよらない出来事であったので焦りはしたが。
「アイシア……!」
胸に飛び込んできた黒猫は震えていた。
「大丈夫だ。ちゃんと来れて偉かったな」
声も出せずに震える黒猫が、ゼフュロスの腕の中から見上げてくる。小さな頭を撫でてやると、ゼフュロスは手早くジャケットを脱いで、彼女をすっぽりと覆い隠した。
片腕にしっかりとアイシアを抱くと、ゼフュロスは未だに叫び回る男に大股で歩み寄る。
「ちょっと良いか」
「なんだ……!?」
背後から顔面を一発殴ってから手刀で気絶させる。
崩れ落ちた男を拘束するのは劇場の関係者に任せると、ゼフュロスは黒猫姿のアイシアを包み隠したまま、その場を離れたのだった。
馬車の中でようやく変化を解いたアイシアを、ゼフュロスは変わらず腕に抱き込んでいる。ショックと恐怖でで未だに小さく震えはするものの、アイシアは少しずつ落ち着きを取り戻して行った。
「お見苦しいところを……申し訳ございません」
「……見苦しい?」
「その、変化をしましたので。……人前でする事ではなかったと反省しております」
先程からアイシアは顔を上げない。馬車の中の薄暗がりでもわかるくらいには耳が紅いので、赤面を見られたくないのだろう。
アイシアを膝から降ろそうともせず、自身のジャケットを肩にかけ直してやりながらゼフュロスは小さく笑う。
「小さな黒猫がですか? あまりにも可愛らしいので驚きはしましたが」
ゼフュロスの言葉にアイシアがチラッと目線をあげる。ゼフュロスと目が合うと、恥ずかしそうにその目を逸らした。
ゼフュロスは、アイシアのほつれた髪をそっと耳にかけてやる。
「変化して俺の所に来たのはいい判断でしたよ」
「……でも、ゼフュロス様を巻き込んでしまって」
「そんなものは今更でしょう。あなたを妻にと求めた時からこの程度は覚悟の上でしたし、何より俺は騎士なので負けませんよ」
「……」
顔を上げたアイシアは、自責の念にかられた顔をしている。そんな婚約者となった美しい女を、ゼフュロスは正面から強く抱き締めた。
「無事で良かった。……怪我がなくて、本当に……」
「ぜ、ゼフュロス、様……っ」
狼狽えるアイシアをさらに強く抱き締めながらゼフュロスは言った。
「不用意に傍を離れないと誓います。騎士の誓いを捧げてもいい。……あなたを失いたくない」
低く囁かれる声は、どこか不安げで少し震えていた。
揺れる馬車の中でふたりは無言だった。ゼフュロスに抱き締められたアイシアは、厚い胸板に頬を当てて、初めて彼に甘えるようにその身を預けるのであった。




