夢の終わり
帰宅してからの僅かな時間を二人きりで語り合うのが日課となった。
試験期間は残すところあと二週間。
その日も夕日の落ちた庭園を静かに歩きながら、ネリのことや王宮で話題となっている話などを、互いに話し交わしていた。
一通りの話が終わると、アイシアが立ち止まってゼフュロスを見上げる。少し先を歩いていたゼフュロスが振り返ると、アイシアはいつもより少しだけ寂しそうな微笑みを浮かべて薄暗がりの中に立っていた。
「どうかしましたか」
ゼフュロスの言葉にアイシアが目線を下げる。ややあってから、アイシアは少しだけ掠れた声でゼフュロスに告げた。
「そろそろお暇するようにと、バステト家から通達がありました」
「!」
ゼフュロスは動揺を悟らせないように息を飲んでから、アイシアに向き直る。
「……試験期間はあと二週間残っているはずですが」
「……ええ。ですが、もう満足しただろうと……」
「満足、とは?」
ゼフュロスの問いかけにアイシアは顔を上げた。
「ゼフュロス様、私は……あなたのことをお慕い申し上げておりました」
「!」
アイシアは目を細めて、真っ直ぐにゼフュロスを見つめて告げる。息も止まりそうなほどに驚くゼフュロスだったが、かろうじて耐えた。
うっすらと微笑むアイシアは、庭園の花を見ながら続けた。
「当家の強引な申し入れに、ゼフュロス様が戸惑われ訝しんでおられたのは理解しておりました。また、この申し入れを持て余しておられるのも分かっておりました」
「それは……」
ゼフュロスを振り返ったアイシアは小さく首を振る。
「良いのです。山のように送り付けられる婚姻の申し込みを決めかねていたのは私自身の問題です。それを、当主様が少し気を利かせて設けてくれたのが、この試験期間だったのです」
アイシアの言葉にゼフュロスの疑問が解けていく。
なぜ俺なのか? の答えはとてもシンプルなものだった。
「その……なぜ俺を? 俺たちは面識はあるものの、交流らしいものはなかったと記憶してますが」
戸惑いから上擦る声をどうにか落ち着けて問うと、アイシアは花が咲きほころぶような笑顔を見せる。全員が思わず見蕩れる、と話すだけはある美しく品の良い表情に、ゼフュロスは目を奪われた。
アイシアは言う。
「ゼフュロス様だけが、私に何も期待していないと周りに話していたからです」
その言葉にゼフュロスが頭を抱える。確かにそう言った。悪意ではなく、持て囃される年若いアイシアが不憫だったからだ。
しかし、アイシアはそんなゼフュロスを見て小さく笑った。
「最初のきっかけはそれでした。とても嬉しかったのです。何も持たない私を認めてくださったようで。……好ましいと思ったのは、初めてお目にかかった時でした。──それからずっと、お慕い申し上げておりました」
「……」
何も言えずに押し黙るゼフュロスを見つめてから、アイシアは目線を下げる。
「夢のような時間でした。思うところもたくさんあったにも関わらず、このお屋敷に置いてくださってありがとうございました」
「アイシア様……」
顔を上げたアイシアは、眉を下げる。
「ネリさんのことが心残りです」
それはゼフュロスも同感であった。頭を搔くゼフュロスは顔を上げてアイシアを見る。
「満足したか? というのはなんです」
「……」
アイシアは一瞬だけ笑顔を消す。だがすぐに取り繕ったように口元に笑みを刻んだ。目は悲しそうに沈んだままだった。
「好いた方の傍に居られて満足だろう。そのまま返事を貰えれば良し、貰えなければ次の縁組を進めると。……当主様とのお約束でここに参りました」
「……」
黙り込んだゼフュロスを見つめていたアイシアは、一歩下がって優雅に淑女の礼をその場でする。それは王宮や公の場で度々目にしてきた、聖女らしい振る舞いのひとつであった。
「荷造りがありますので、今夜はここで失礼致します」
顔を伏せたまま立ち上がったアイシアは、そのまま背を向けて邸宅の方に歩いていく。俯きがちに戻っていくその姿を見ていたゼフュロスは、次の瞬間には大鷲に変化してアイシアの行く手を阻むように立ち塞がった。
「ゼフュロス、様……!」
驚きに顔を上げたアイシアの大きな目からは、涙を零した跡がある。目を見張るゼフュロスの視線の意味に気づいた彼女は、咄嗟に顔を背けてハンカチを取り出した。
「アイシア様、ひとつ聞かせてください」
細い肩に手を乗せたゼフュロスは、身長差を縮めるように背を屈めて顔を近づける。ハンカチで口と鼻を覆い隠したアイシアが、涙に濡れた瞳を横に流してゼフュロスを伺い見る。そんな仕草でさえ艶やかさが滲み出ていて、ゼフュロスの心臓が大きく鳴った。
「あなたは、21という年の差は気にならないのですか。既に子どもがいる男に何を求めているんです?」
ゼフュロスの問いかけに、アイシアは静かに首を振る。
「年の差も、お子様がいらっしゃるのも、私にとってはたまたまそうだったというだけのことです。……奥様がご存命でしたら、この気持ちは墓場まで持って行くつもりでした」
「……」
邸宅から漏れる灯りがアイシアの横顔に濃い影を作る。頬に流れた涙の跡は乾く間もなく、次の涙を静かにそこに注いでいた。
アイシアの肩を掴んだゼフュロスは、そっとその場で膝を着いて彼女を見上げる。肩から腕、そして柔らかく小さな手を両手で握ると、ゼフュロスは真剣な眼差しでアイシアを見つめた。
「俺にとっての婚姻は、与えられた役割をこなし、求められた役をその通りに振る舞うことです。少なくとも、セルケトとはそんな間柄でした。色恋や愛情とは無縁。貴族の家同士での婚姻はそういうものと思ってます」
ゼフュロスの言葉を黙って聞くアイシアは、彼の言わんとすることを察して目を伏せる。
「私が浅はかでした。……煩わしいことに巻き込んで申しわ」
「違う、そうじゃない」
顔を上げてゼフュロスを見つめ返すアイシアが微かに首を傾げる。ゼフュロスはアイシアの手を握ったまま、静かに言葉を重ねた。
「あなたを見ていると、ネリはよく笑い、そして大きく成長する。そんな場面を何度も見ました。少なくとも娘とあなたは、これから先、親子という関係をきちんと築いて行けるだろうと、俺は思っています」
「……光栄です」
ぎこちなく笑うアイシアを見つめながら、ゼフュロスへ真っ直ぐに伝える。
「もし可能であるのなら、役割を超えた……愛情のある夫婦関係というものを……俺に教えてはもらえないでしょうか」
「……ゼフュロス様……」
目を見開くアイシアを見つめるゼフュロスがのっそりと立ち上がる。アイシアの手を握ったまま、片手は己の頭を搔いて苦笑を浮かべた。
「なのでバステト家には俺からきちんと返事を出しますので……帰るのは、待ってもらえませんか」
「返事、って……」
ハンカチを口元に当てたまま、くぐもった声で呟くアイシアを、ゼフュロスは見下ろして小さく笑った。
「あなたを妻に迎えたい、と」
黒目がちな大きな瞳から、ハラハラと涙が零れ落ちる。泣き顔を見せまいと、咄嗟に顔を逸らしたアイシアを、ゼフュロスは正面から抱きしめた。
「!」
驚いて離れようとするアイシアを抱きしめながら、ゼフュロスは宥めるように低く囁く。
「誰にも見られないようにしますから」
「……ありがとう、ございます……」
小さな声で礼を口にしたアイシアは、ゼフュロスの腕の中で静かに涙をまた零して笑うのだった。




