終話 ウラエウス家
「……」
見下ろしてくる家庭教師を見上げていたネリは、彼女の視線を真っ直ぐに受け止めたまま、次の言葉を待っていた。
糸がピンと張り詰めたような一時。だが、それも長くは続かなかった。家庭教師がネリを見下ろしたままにっこりと笑う。
「見違えるほどに進歩されましたね、ネリ様。初歩的な令嬢教育は全て完璧と言って良いと思いますよ」
「本当ですか?!」
「ん?」
「あ……」
家庭教師の寄せられた眉にネリは慌てて言い直す。
「ありがとうございます。バンクス夫人」
淑女の礼でもってそう伝えると、淑女教育の家庭教師──バンクス夫人はレースの手袋越しに手を叩いて、再びニコリと笑ってみせた。
「良いでしょう。合格とします。本日の授業はこれで終わりに致しましょう」
「ありがとうございました」
再び礼をとると、バンクス夫人も同じように腰を沈めて礼を返す。そうして顔を上げると、ネリは嬉しそうにまた笑うのであった。
授業終わりにお茶を飲みながら振り返りをする中で、話題に登るのはネリの新しい母親のことである。
「アイシア様とは上手くやれているようですね」
「もちろんです。アイシアお母様はとても素敵なんです。わたしの憧れの女性です」
ネリの表情は喜びに溢れている。バンクス夫人は目を細めて頷いた。
「手本となる方が身近にいるのは良いですね。アイシア様の存在があなたにとても良い影響を与えているのでしょう」
「お母様にたくさん、令嬢のあるべき姿を教わっています。上手にできるとほめてくれるのですよ」
「頼もしいですこと。次の段階の令嬢教育も楽しみですね」
「はい! がんばります」
微笑むバンクス夫人が顔を上げる。そしてネリの産みの母が作り上げた庭園に目を移した。
「そういえば、そのアイシア様はどちらに?」
アイシアはネリの勉強が終わる頃にはいつも顔を出していたが今日は姿が見えない。ネリを見れば、フフフと嬉しそうに笑うばかりだった。
「ネリ様?」
「アイシアお母様は、お部屋でお休みしてます」
「あら、風邪などですか? 具合が悪いのでしょうか」
顔を曇らせるバンクス夫人とは対照的に、ネリはやはりフフフと笑うだけだ。その表情を見て、バンクス夫人は少しだけ目を見開く。
「もしかして……?」
「なにも言いません」
頷いたバンクス夫人は静かに呟く。
「言わなくて結構ですよ。……そうね、婚姻式から一年経つのですね……」
ネリは嬉しさが抑えきれないように吹き出すが、最後まで首を振って理由は言わなかった。
バンクス夫人を見送ってから、ネリは両親の寝室に向かう。
小さくノックをしてから扉を開けると、広い寝室の奥に据え置かれたベッドで、大鷲が黒猫を翼の中に抱いて眠っていた。言わずもがな──大鷲はゼフュロスで、黒猫はアイシアだった。
ネリの気配に目を覚ました大鷲が、顔を上げてから目を細める。
「先生は帰ったのか」
小声で訊ねるゼフュロスに、ネリも小声で囁き返す。
「はい。初歩的な令嬢教育は完了ですって」
「そうか、おめでとう」
へへへと笑うネリだったが、父の隣で目を覚まさない黒猫をそっと伺う。
「お母様はまだしんどいのでしょうか」
心配そうな表情にゼフュロスは大鷲姿のまま眉を下げる。
「昨夜も眠れなかったらしい。さっきやっと眠ったところだ」
「……お母様は……つらそうです」
いくらか痩せてしまったアイシアの姿を見るにつけ、ネリはいつも悲しそうな顔をする。それが忍びなくてアイシアはこのところ、人目のないところでは黒猫姿で過ごすことが多かった。──獣化していれば多少は楽でもあるらしい。そして容貌の変化も感じさせ辛いためだった。
表情を曇らせたネリの頭をゼフュロスは羽根で撫で付ける。
「お前の母親も辛そうだったな。子を腹に宿すのは、男には想像もつかない辛さがあるんだろう」
脱力しきって寝息を立てる黒猫をネリは見つめる。
「わたし、良いお姉さんになれるでしょうか」
顔を上げたネリがゼフュロスを見つめる。ゼフュロスは笑った。
「なれるさ。心配なのか?」
「だって……お母様の本当の子どもができたら、お母様を取られちゃうし……。弟か妹ができるのは嬉しいですけど」
もごもごと呟くネリを抱き寄せてゼフュロスは低く笑う。
「アイシア以上にお前が可愛がってあげれば、新しい家族は喜ぶし、アイシアも幸せだと思うがな」
ゼフュロスの言葉にネリが顔を輝かせる。
「そっかぁ……!」
盲点とばかりに目を見開いていたネリが、うふふと笑う。
「絶対ぜったい、そうします。だって必ずかわいい子ですから」
ネリはそう言うとゼフュロスの頬に口付ける。そして眠る黒猫姿のアイシアにもそっと口付けを落としてから、またそっと部屋を出て行った。
うっすらと目を開けていた黒猫に気付いたゼフュロスは、その頬に娘と同じように口付ける。くすぐったそうに目を細めたアイシアは、やがてゆっくりと人型に戻って、小さな欠伸を手で隠した。
「休めたか?」
大鷲から人型に戻ったゼフュロスが、肘枕でベッドに横たわったまま訊ねる。
顔色の優れないアイシアは口元を手で押さえたまま、微かに頷いて笑った。
「お休みの日ですのに、ごめんなさい」
「俺が傍に居たいだけだ。……邪魔なら遠慮なく言ってくれ」
苦笑しながら首を微かに振ったアイシアが、閉まったままの扉に目を移す。やや切なげな眼差しを浮かべながら、彼女はそっと呟いた。
「寂しい思いをさせてますね」
「……長子はそんなものだ。だがそれ以上に楽しみが大きい。頼ってあげてくれ」
ゼフュロスはそう言うとアイシアの額に口付けて、横たわる妻を抱き寄せた。
「つわりが落ち着いたら、しっかり食べてくれ。抱き締めたら骨を折ってしまいそうでおっかない」
「そこまでではないでしょう」
「要するに、心配なんだ」
憮然と呟くゼフュロスにアイシアが小さく頷いて見せる。そしてまた黒猫姿に変化をすると、夫の高い体温に包まれながら、眠りに落ちていった。
劇場で襲われた夜以降、ゼフュロスは二人きりになると、アイシアをしっかりと抱き締めるようになった。
婚姻式が終わり初夜を迎えた以降は、毎夜遅くまでアイシアを楽器のように啼かせ、肌を合わせて眠る日々。
甘さなどは無縁と思われていた天空騎士団長の変貌ぶりは周囲とアイシアを充分に驚かせたが。娘のネリと副団長のカミルだけは、さもありなんと言った風にニヤニヤと笑って見ていた。
ゼフュロスが愛妻家の名を轟かせる頃、聖女アイシアは男児を産み落とす。大鷲の系譜となったその子を、ネリはとても可愛がり、両親と共にその子どもを育てていく。
──子どもの名は、アイロス。母親によく似た、物静かで聡明な子だった。後に天空騎士団のエースとなるその子は、多くの愛情をもらいながら元気に育っていく。とりわけ姉をよく慕い敬うところは、ネリの可愛がり方のせいなのだろう。
宣言通りに「良い姉」として関わった彼女は、数年後には「淑女の鏡」として貴族社会で知らぬ者は居ない程の有名人となる。アイシアとバンクス夫人の功績である。
アイシアは、変わらずゼフュロスを眩しそうに見つめて微笑む。
彼の大きな翼に守られながら、甘い恋慕と深くなる一方の愛情を惜しむことなく注ぎ続けている。
ゼフュロスとアイシアは番関係では無い。それでも、愛情で結びついたこの夫婦は、貴族社会での婚姻のあり方を見つめ直すきっかけをこの国に与えた。
アイシアは微笑む。
彼女は今日も明日も、幸せそうに家族を見つめて笑うのであった。
おわり




