試験期間のはじまり
『婚約前試験期間』は、主に獣人族の高位家門で発動される制度だ。
高位家門との縁続きを目論む貴族は多いが、その婚姻が高位家門にとって有益でなければ意味がない。
婚約関係を持って相手を知り、相手の家系を伺いみることはできるものの、家門の序列が高ければ高いほど、その見極めに費やす時間は多いほうが望ましいとされる。
そこで、婚約をするに値するのかを見極める制度として、この試験期間ができたのだった。
この期間中、双方は同じ屋敷には住むが、婚約前なので寝室は別。公式行事には婚約者と同等の立場で同行、出席する。という大まかなルールがあるのみで、あとは双方で期間をどの程度にするのか等の細かな調整を行うくらいである。
高位家門のすべてが、婚姻に際してこの制度を活用しているわけではない。急に持ち上がった話や、何らかの事情で婚姻相手を変更する等の場合に、この試験期間が設けられるのであった。
「だがなぁ……アイシア様の相手だぞ……? なんで俺なんだ」
あの後、ネリはアイシアの手を引いて、邸宅の中へ入って行った。バステト邸と比べると慎ましいくらいな邸宅ではあるが、ウラエウス家の本宅しての威厳は十分に示せるだけの威容はある。物珍しいものでもあるだろうと思いながら、二人を見送るとゼフュロスは私室で着替えなどを済ませた。
家令が呼びに来るまで、ゼフュロスはバステト家から送り付けられた書状に改めて目を通す。
バステト当主からの慇懃なまでの謝罪と、どうか前向きに検討してほしい旨の内容を読み返して、ゼフュロスは何度目かのため息をつく。繰り返し読んでも、書状にはゼフュロスでなければならないとは一文字も書かれてはいなかった。
「んー……」
考えても仕方がないが、アイシアがやって来た以上追い返すのは無礼にあたる。そして久しぶりに子どもらしいワガママと言ったネリの笑顔を奪うことにも繋がることは明白だ。何か思惑があるのであればそのうちわかるだろう。その前に水を向ければアイシア自身から話すことも考えられる。
ひとまず様子を見るしかない。ゼフュロスはそう結論付けて、書状を引き出しにしまい込んだのだった。
夕食の席で、ネリはアイシアにベッタリと張り付いて、いろんな話をしている。
これまでに学んできたことや、知っていること、好きなことや苦手なことまで、自身のことの全てを把握して欲しそうに何でも話し聞かせている。子どものたどたどしい話し方ではあったが、一生懸命に話すネリを見つめるアイシアの眼差しは非常に優しく穏やかである。時折質問を混ぜて、ネリが話しやすいようにしたりはするものの、基本的にアイシアが退屈そうな顔をすることは無く、むしろ興味深そうに頷いて微笑みを浮かべる姿は、年の離れた姉の様にも見えた。
「ねえいいでしょう、お父さま?」
「ん?」
杯を傾けていたゼフュロスを振り返ったネリが、首を傾げてゼフュロスを見ている。二人の様子を見守っていただけで、特段話に参加もしていなかったゼフュロスは、唐突に水を向けられて首を傾げる他なかった。
案の定、ネリは話を聞いていなかったゼフュロスに向かって頬を膨らませている。非常に愛らしい表情ではあったが、ゼフュロスは気まずそうに頭を掻いて見せた。
「悪いわるい。何の話だったんだ?」
「もう! お父さまはいつもそうなんですから」
怒ってむくれるネリの肩を優しく撫でたアイシアが、ゼフュロスに微笑みかける。
「今度、白麗に行ってサフィアに会いたいと話しておりました」
「サフィアに?」
白麗は、ゼフュロスが率いる天空騎士団の本拠地としている要塞都市だ。白亜の要塞としても知られる、古代から引き継がれた巨大な城である。そしてサフィアは、ゼフュロスが騎乗する、調教と訓練を施された大鷲の魔獣だ。真っ白な体毛にサファイアブルーの瞳を持つ、美しい相棒である。
「それは構わないが、なんでまた……」
ネリがこれまで、ゼフュロスの職場や相棒に対して興味を示したことはない。首を傾げているとアイシアが申し訳なさそうに眉を下げた。
「私が以前にサフィアに乗せてもらったと話したので……」
確かに前に一度あった。副団長であるカミルが、御前会議に召集された際、番の少女を迎えに行くと強行したのを追いかけた先が、バステト家だったのだ。
「アイシア様が、サフィアがとてもキレイだったと話していました。お父さま、わたしもサフィアに会ってみたいです。それに、それに! 白麗でお買い物もしてみたいです」
「おいおい、どうしたんだネリ」
娘の変わりようにゼフュロスは戸惑うばかりだ。アイシアを見ると、ネリの様子を静かに見守っている風に微笑みを浮かべている。ゼフュロスの視線に気づいて目が合うと、彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
「あー、ネリ? ちょっと落ち着こうか」
「わたしはおちついてます。ねぇお父さま、いいでしょう?」
「それは構わないんだが……」
ゼフュロスの呟きにネリが歓声を上げてアイシアを振り返る。
「よかったですね」
「はい! その時はアイシア様もいっしょに行きましょうね?」
ネリの他愛もない一言に、アイシアが曖昧に笑ってチラリとゼフュロスを伺うように視線を上げる。
ゼフュロスはその視線を受けて、苦笑いを浮かべた。
「迷惑じゃないなら、ぜひ一緒にどうですか」
「あ……ありがとうございます」
花が咲くような笑顔だった。
いつだったか、アイシアの専属護衛のレネが、彼女の笑顔が素晴らしく美しいのだと話して聞かせてくれたことを思い出す。その時は(そんなもんか?)と思った記憶があったのだが、今にして思えばレネの言っていたことは正しかったとゼフュロスは思う。
ネリにサフィアのことを話し聞かせているアイシアは、穏やかな眼差しで愛娘を見つめている。
娘との相性は悪くはないように見える。だが、聖女として活躍するアイシアは、ゼフュロス以上に多忙を極めている立場だ。――彼女に母親役を期待するのは、かえってネリに酷なことになるかもしれない。
それを思うと、仲良さげに笑いあう二人の姿を複雑な思いで見つめる事しかできないでいた。




