ウラエウス家は断れない
ゼフュロスは10数年前にウラエウス家という女蛇族の家門に婿入りした。元の家門はネクベトという大鷲族の系譜で、彼自身も大鷲の獣人族だ。家の駒になるか、自身で身を立てなければならない貴族の三男だったゼフュロスは、もちろん後者を選び、早くから騎士としてその才能を開花させていた。
婚姻などに興味もなく、黙々と騎士として功績を積み重ねるだけだった彼は、家門の為の婚姻を了承して苗字を変える。ゼフュロスが29歳の時の話であった。
ゼフュロスより4歳ほど年上で、滅多に笑うことのない女──それが妻のセルケトだった。家門の駒としての役割を理解しており、全てに期待もせず、過剰な夢も希望も持つことはない──そんな女だった。
娘のネリを産んでからは、多少は人らしい感情を見せることは多くなったものの、ゼフュロスに対して夫の役割以上を求めることはなく、お互いが生活を共にするパーツのひとつとして認識し振舞っているような関係であった。
故に、ゼフュロスにとっての婚姻とは貴族の義務であり、面倒な役割分担を演じなければならないものとしての認識である。
母親に甘えたい盛りの娘を思えば、その役割を果たす女は確かに必要ではあるが、それと自身の婚姻を混同することは違う。あのセルケトですら娘には愛情を持って接し、養育や教育を熱心に施していたのだ。仮に次の妻を娶ったとして、その人がそこまでしてくれるのかと考えてみるものの、それは期待薄であろうと思われる。
であるので、バステト家からの申し入れはゼフュロスにとっては渡りに船とはならないのであった。
「おかえりなさいませ、旦那様」
仕事の大半をカミルが片付けてくれたお陰で、ゼフュロスは久しぶりに早く邸宅に帰れることになった。
迎えに出た家令はゼフュロスに駆け寄ると、珍しくにこやかに微笑みながら耳打ちしてをしてきた。
「なんだ、良いことでもあったのか」
「もちろんでございます。アイシア様は本当に素晴らしい方でございますね。ネリ様はすっかり懐かれて、お傍を離れようとなさらないのですよ」
「──は?」
嬉しそうに話す家令をまじまじと見つめ返したゼフュロスは、眉を寄せた。
「待て。なぜアイシア様がここにいるんだ」
「なぜって。バステト家から打診があったではありませんか。婚約前試験期間のこと……」
「来てはいたが、俺は断るつもりでいたんだぞ?」
ゼフュロスの一言に家令は、微笑を消してカッと目を見開いた。
「なんと! 断るなどとんでもない! ウラエウス家はバステト家よりも格下なのですよ? 旦那様の言葉一つ、行動一つで当家の立ち位置は変わってしまいます。亡き奥様──セルケト様が必死に守ってきたウラエウス家の家格を、どうか貶めないでくださいませ」
「でもな」
「でも、もなんで、もいけません。ここでの振る舞いが後のウラエウス家の後継者であるネリ様のためにもなるのでございます」
「……ぐっ」
カミルと同じように娘の名前と立場を持ち出して来た家令は、ここぞとばかりに怯んだゼフュロスの背を押す。娘のネリに対しての負い目があるゼフュロスには、引導も同然であった。
そろそろ夕方に差し掛かる時間帯だ。
かつてはセルケトの管理で維持されていた庭園の片隅で、愛娘ネリは、アイシアとベンチに座り何やら楽しげに話をしている。何かを覗き込んでから二人で顔を見合わせて笑いあう姿を見ていると、視線に気づいたのかネリがこちらを振り返った。
「お父さま!」
ゼフュロスに駆け寄るネリを視線で追いかけたアイシアが顔を上げる。そしてネリを抱き上げるゼフュロスを見て小さく微笑んだ。
「おかえりなさい! 今日は早かったのですね」
「ただいま、ネリ。アイシア様に遊んでもらっていたのか?」
ベンチから立ち上がってゆっくりと歩いてくるアイシアを見る。ネリは嬉しそうにゼフュロスの太い首に腕を巻き付けると、「はい!」と嬉しそうに返事をした。
「アイシア様にお花の名前をおそわっていました。あの紫色の花の名前、お父さまは知ってますか?」
庭園の花壇に咲く紫色の丸い花を指さすネリが、瞳をキラキラと輝かせながら首を傾げる。ゼフュロスは久しぶりに見る娘の輝くような笑顔を見つめながら、目を細めて首を横に振った。
「アリウム・ギガンチウムというのですって! そしてあっちに咲いているのがジギタリス。お母さまはたくさんの花を育ててたんですねって、アイシア様が笑ってくださったんですよ」
自分が褒められたかのように誇らしげに言うネリが、ゼフュロスに笑いかける。ゼフュロスはそうか、と頷いてから、一歩離れたところに静かに佇むアイシアに目を向けた。
「アイシア様、娘の相手は大変だったでしょう。ありがとうございます」
「いいえ。私のほうが教わることの多い時間でした」
静かに微笑んだアイシアは、恥ずかしそうに視線を下に向ける。救国の聖女と呼ばれるようになっても、アイシアの奥ゆかしさは変わらずだとゼフュロスは思った。
ネリがゼフュロスの腕から飛び降りるようにして抜け出すと、アイシアの元に駆け戻る。そしてその白い両手を握ると、花の様に麗しいと謳われる顔を見上げて言った。
「ねえ、アイシア様。まだお帰りにならないでしょう? もう少し居てくれますか? もし良かったら泊って行ってくれませんか」
「あ……」
ネリの懇願にアイシアはチラリと目だけを上げてゼフュロスを見る。
視線を受け止めたゼフュロスは、その意味を瞬時に理解した。
――突然乗り込むような形となったことをお詫びします。ご不快ならお暇致しますので。
ゼフュロスは必死にアイシアの滞在を願う娘を見て、頭を抱えたくなった。あまり構ってやれなかった娘が、ここまで懐いて笑顔を見せる相手はそういるものではない。己の我がままで娘を気落ちさせるのも忍びなく思うと、口は自然と開いていた。
「ああ。も、もし良かったら、しばらく滞在してください。……ネリも喜びますので」
「!」
驚いて顔を上げたアイシアと目があったゼフュロスは、彼女の顔に浮かび上がった喜色に僅かに目を見開いた。
ネリは歓声を上げてアイシアに抱きついている。屋敷の中を案内すると張り切る娘の嬉し気な様子を見ながら、ゼフュロスは人知れずに息を吐き出した。
娘のためだ。
己にそう言い聞かせつつも、ネリの話す言葉に耳を傾けるアイシアの姿から、なぜか目が離せなかった。




