03
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俺は本当に運が良かったのだろう。
病院で数日間過ごし、ひと通りの検査を終えると、そのまま退院することができた。
ケガは本当にただの青あざだけだった。
体の痛みはあるが、そんなのは普通のことだ。俺は高校生になったばかりだが、体のあちこちが痛むなんてのは30代に入った大人なら日常茶飯事だと聞く。
ということは、この程度の痛みは気にするほどのことではない。
……そうだろ? たぶん、そうに違いない。
学校へ向かう途中、恵莉香は一度も姿を現さなかった。
それでも、数十メートルほど後ろから、俺をこっそり見つめている気配だけは伝わってくる。
彼女が出てこようとしないのは、あの事故の後に起きた「アレ」のせいだ……。
「先生、あの……なんだか目の様子がおかしいんです」
「ん? 見えないのかい?」
「いえ、見えすぎてるんです。いつもより多く」
「……」
医者にどう説明すればいいのか分からなかった。幽霊が見えるという話は、信じる人もいれば信じない人もいる。そして、俺の見立てではあの医者は後者だった。
「こいつ、医者をからかってんのか?」と言いたげな目で俺を見てきたあの顔は、今でも忘れられない。
まあいい。身体的な状態としてはどこも異常なし。おかしなところがあるとすれば、ここだけだ……。
「……服を着ていないのが、女の幽霊だけなのは、まだ救いだな」
学校へ行く道すがら目にする幽霊のうち、全裸に見えるのは女性の幽霊だけだった。
俺も一人の男だ。自分の夢について、べつに女優とそういうことをしたいからではない、と前に言いはしたが。
それでも、男の全裸を見せられるのだけは勘弁してほしい。
不幸中の幸い、とでも言っておこう。
学校に到着し、教室へ向かって歩いていると、後ろからひそひそ話が聞こえてきた。
それと同時に、視線が突き刺さる。
「なにあれ、何つけてきてんの?」
「車に撥ねられたって聞いたけど……頭でも打ったのかな?」
だいたいそんな内容だ。
当然、俺が事故に遭ったばかりだからではない。その視線とひそひそ話の理由は、俺の顔面にある。
ガラガラと教室のドアを開けた。
また視線が集まる。見るなら目が潰れるまで見やがれ。こっちにだって事情があるんだ。
一人の男子生徒が俺に気づき、手を振ってきた。
「おう! 誠! 車に撥ねられたって聞いたけど……っていうか、なんでお前『サングラス』なんかかけてきてんだよ!?」
どうやらそれが、その場にいる全員の心の声だったらしい。ただ、こいつがそれを大声で口にしただけだ。
俺はべつに周囲から嫌われているわけではない。だが、もし俺の立場だとしても、こんなものを学校につけてくる奴を見かけたら「あいつ、頭おかしくなったのか?」と思うに違いない。
俺が席に着くと、そいつは前の席の椅子を引っ張って、こちらに向き直るように座った。
しばらく俺の顔を凝視したかと思うと……。
「領域展開でもすんの?」
俊郎は人差し指と中指を交差させながら言った。
俺は首を傾げた。
「何の話だ?」
「お前、AV以外に何にも見ないわけ……?」
領域って何だ。それがサングラスと何の関係がある。
わけがわからない。
結局、俊郎が何の話をしているのか俺には分からなかった。
すると、彼は呆れたような表情を浮かべた。
「……高校デビューを狙うにしても、数週間遅すぎだろ、誠」
「そんなんじゃない」
「それに、サングラスをかけたからって、別にカッコよくはならねえぞ」
「人の話を聞けよ、おい」
この男は、俺の親友だ。
白銀 敏郎。俺は「トシ」と呼んでいる。
なかなかのイケメンだ。勉強もできてスポーツも万能そうな、そんな雰囲気を漂わせている。もし教室でサバイバルゲームでも始まれば、真っ先にみんなの心を一つにして鼓舞するリーダーになるのはこいつだろう。
そんな感じの男だ。
しかも実際に運動部に所属していて、背も高くて格好いいから、女子からの人気も凄まじい。
俊郎……こいつとは、そう呼べるほど親しいと言って間違いではないが、俺の視点からすれば、名前を1音節削ることに重要性を見出しているだけに過ぎない。
高校時代の友人は、一度親しくなれば老人になるまでずっと付き合いが続く、と聞いたことがある。
そうだとするなら、俺はこれから何万回、何十万回とこいつの名前を呼ぶことになる。
そこから1音節削れるというのは、費用対効果が抜群に高い。どうせ誰のことだか特定できるわけだしな。
トシはため息をついた。
「そもそもデビューなら……お前、自己紹介の時にもう済ませてんだろ」
「自己紹介の時に夢を語る奴なんて、他にもいただろ?」
「お前の夢が、クラスメイト全員の前で大声で発表するほどのもんかよ?」
数週間前、新学期の初日。中学から高校への進学ということもあり、俺を含めて何人かのクラスメイトは別の学校から来ていた。
そのため、初日に担任の先生から自己紹介をするように言われたのだが……。
「時任誠です。夢は、AV男優になることです!」
大きな声で、はっきりと。
恥じらう様子など微塵もなく。
堂々と、言ってのけた。
前にも言った通り、自分の夢を恥ずかしがっていたら、そんなの夢とは呼べない。
俺はもう修正不可能なその話題をスルーして、口を開いた。
「いいか ト 、このサングラスをつけてるのには、俺なりの理由があるんだよ」
「俊郎だ」
思わず1文字だけで呼んでしまった。まあ、今回の呼び方としては十分に元が取れたということにしよう。
「このサングラスはな、見えすぎるのを制限するためのものなんだよ」
「どういうことだ?」
「俺に幽霊が見えるっていう、あの話だよ」
トシは、俺に幽霊が見えるということを知っている。
かつて自分はオバケや幽霊の類は信じないと言っていたが、それでもこの話を信じてくれているのは、それを言ったのが俺だからだ。
そう考えると、こいつは随分と俺を信頼してくれているらしい。
トシが問いかけてきた。
「それでお前……?」
「事故に遭った時、頭を少し打ったみたいでさ……。あの後から、前よりももっとたくさん見えるようになっちまったんだよ……」
めちゃくちゃ大量にな。
入院中、数々の女の幽霊の「生まれたままの姿」を目撃したわけだが、どういうわけかこの話を思い返すと……。
真っ先に頭に浮かんでくるのは、恵莉香の姿だった。
トシは眉をひそめた。
「つまり、幽霊がもっとたくさん見えるようになった、とかそういうことか?」
「いや……」
「じゃあ何なんだよ!」
俺はトシの襟元を引っ張り、耳元で囁いた。
「今、女の幽霊が全員、服を着ていないように見えるんだ……」
手を離すと、トシはこれ以上ないほど怪訝な表情を浮かべていた。
「女だけ?」
「ああ」
「男は?」
「普通に見える」
トシはそれを聞くと、腕をきつく組み、何やら複雑な思考をすべて顔に出しながら考え込んでいた。
「だからお前……見える量を減らすためにサングラスをかけてきた、ってわけか?」
「まさにその通り」
見えすぎるのは、不可抗力で解決策もないことだが、俺の最低限のマナーとして、このサングラスをかけておいても損はないだろうと考えたのだ。
大して役に立っているわけではないけれど。
トシは眉をひそめた。
「お前……大丈夫か?」
「……」
頭のおかしい奴を見るような目で俺を見るのはやめてくれ。
俺に幽霊が見えるという話までは信じてくれたくせに、この理由だけは信じてくれないらしい。
トシは俺のサングラスをひったくった。
「それにしてもだ! こんなのつけてるの、ダサすぎるから外せって!」
「まあ、そうだよな……」
あっさりと認める。
実際ダサいし、領域展開もできない。
うーん、ところで領域って一体何なんだ?
俺は携帯電話を取り出して画面を見た。
すると、トシが聞いてきた。
「それはそれとして、どこかケガはないのか?」
その心配そうな問いかけに、俺は顔を上げた。
「ないよ。ちょっと体が痛むくらいだ」
「車に撥ねられてそれだけかよ? 普通は骨の一本や二本くらい折れてるもんだろ」
「呪うならあっちに行けよ、このバカ」
「ハハハ!」
その笑顔と笑い声で、今までに何人もの女子を落としてきたのだろうが、あいにく俺が見ると小癪に障るだけだ。
トシは顔を突き出し、俺の携帯の画面を覗き込んできた。
「またAVかよ?」
「他に何を見ろってんだ?」
「AV以外のものなら何でもいいだろ」
「興味のないものを見てどうするんだよ」
「だからって教室で見るなよな」
俺はそれを聞いて、もう一度顔を上げた。
「家で一人でコソコソ見てる奴らより、俺みたいに堂々と見てる奴の方がマシだと思うけどな」
「その自信は一体どこから湧いてくるんだよ……」
トシは、ナルシストを見るような目を俺に向けてきた。
「少なくとも俺はあらゆるジャンルを網羅してるぞ。どこかの誰かさんみたいに、特定のジャンルだけを厳選して……」
「何口走ろうとしてんだお前は!?」
言い終わる前に、トシの手によって口を塞がれた。まあな……俺はこいつと十分親しいから、こいつが自宅でどんなジャンルを好んで見ているかくらいは知っている。
その時だった。不機嫌そうな声が横から響いた。
すらりとした手のひらが、俺の机をパチンと叩く。
「時任くん! 何日も学校を休んでいたと思ったら、登校早々、教室でそんな破廉恥な動画を見ているのですか!?」
俺とトシの視線が、その少女へと向けられた。
学級委員長。
そして、生徒会副会長。
藤原 秋穂、その人だった……。




