078 返却先のない伯爵家
伯爵家の祈祷室は、香の匂いだけが妙に濃かった。
奥棚の板を外すと、薄い帳面が三冊、布で包まれて出てくる。
返却先原簿。緊急前置控。仮出し先一覧。
どれも、外倉の白紙欄で消されていたはずの行き先を持っていた。
監察局の上席官が最初の帳面をめくる。
「北門外から消えた麦。返却先は……」
「空ではありません」
わたしは次の行を指した。
「書き換え前は、ここです」
『王領保全庫前置』
『聖域倉庫前段』
広場がどよめく。
王都の外倉と北門外を痩せさせた先で、荷は消えたのではなく、別の席へ寄せられていた。
「王領保全は正当な非常措置だ」
父が声を張る。
「王都中枢を守る備えを、伯爵家が預かっただけだ」
「守る、ですか」
わたしは原簿の端へ零番灯を置く。
「なら、戻り先と戻し時期があるはずです」
光に照らされ、欄の下から消えた書き込みが浮く。
返却予定、空欄。
輪転日、空欄。
代替支給、抹消。
「これは備えじゃありません」
わたしははっきり言った。
「現場を痩せさせたまま、戻す順番を持たない前置です。倉ではなく、飢えを押しつける溜め置きです」
カイル様が原簿を監察局側へ向けた。
「北辺の配分は、返却不能なら最初からそう書く。後日精算なら担当を置く。どちらもないなら、責任を消すための帳面だ」
上席官が低く息を吐く。
「聖域倉庫前段……そんな控えは局の通常台帳にない」
ないはずの倉へ、都の命綱が寄せられていた。
零番灯の赤線が、原簿の上で細く伸びる。
王城南の古い祈祷区画、その下へ。
父が初めて目を逸らした。
止め札の先に隠していた場所が、ようやく名前を持ってしまった。




