053 灰の名で立つ夜
見本卓の空気が変わると、今度は人の口が動き始めた。
「あれが北辺帰りの」
「灰かぶり令嬢、でしたかしら」
聞こえるように落とされた声は、王都らしく薄い笑いに包まれている。
でも前ほどは刺さらなかった。
「便利な呼び名ですね」
近くの貴婦人へ向き直ると、相手は少しだけ目を丸くした。
「灰は、隠したものの輪郭をよく見せますから」
その返しに、周囲の笑いが止む。
嘲りは、受け取る相手が俯いた時だけ形になる。
少し遅れて、父が広間へ現れた。
監察局の押収以来、前より背が低く見える。
でも声だけは昔のままだった。
「リーゼ。今夜は騒ぎに来たのではあるまい」
「ええ。置き場を確かめに来ました」
「家名を立てれば済む話だ。北辺の話も、ハルフェン伯爵家の後援として整えられる」
「整える、ですか」
わたしは父の後ろを見た。
セシリアがいた。淡い色の手袋をはめ、指先だけ強く握っている。
その半歩後ろにはドロワもいて、宴客の顔をしているくせに、目だけが紙の行き先を数えていた。
父は声を落とす。
「これ以上、家の恥を晒すな」
「もう家の内側だけで畳める話ではありません」
そこへセシリアが、わたしの横を通るふりで小さな紙片を落とした。
拾って広げる。
『後援覚書 今夜、第二鐘のあと』
署名欄つきの覚書。やはり宴の最後で形にするつもりだ。
「お姉さま」
セシリアはわたしを見ないまま、かすかに言った。
「気をつけて」
家の空気だけを読んでいた頃の声じゃない。
半歩だけでも、外へ出ようとしている声だった。
第二鐘が鳴る。
広間の中央へ新しい紙が運ばれてくる。
王都の夜は、見本卓だけじゃ終わらない。
次は、人まで条件書へ載せる番らしい。




