040 灰の下の種子札
押収品の仕分けが一段落した夜、監察局の廊下でわたしは妙な呼び名を耳にした。
「あの北辺帰りの」
「灰かぶり令嬢、ってやつ?」
石床の向こうで、若い書記たちが小声で笑う。
たぶん悪意半分、面白がり半分だ。
北で着ていた灰色の外套のまま倉へ入り、香油より先に帳面と袋口を見た娘。
王都から見れば、そういう呼び方になるのだろう。
でも不思議と、あまり腹は立たなかった。
煤けた都の中で灰まみれになっているのは、わたしだけじゃない。
隠したいものの上へ、皆が少しずつ灰をかぶせている。
違うのは、わたしがその下を掘り返す側だということくらいだ。
翌朝、上席監察官に呼ばれた。
机の上には、押収した金属札と保管図が並んでいる。
「ハルフェン家の穀倉権限は当面停止する」
監察官が言う。
「お前の嫌疑も一旦外れる。王都穀倉側の臨時補佐として残る気はあるか」
一瞬だけ、昔のわたしならどうしただろうと思った。
家の中で席を失わないために、たぶん迷ったふりくらいはした。
でも今は違う。
「残りません」
わたしは即答した。
「必要なのは、この札と保管図を北で照合することです」
「王都ではできんと?」
「できます。でも、北の低温庫と古い保管網を実際に動かしているのは白霧港です」
金属札へ視線を落とす。
「春待ち種を守る倉なら、北で開くべきです」
監察官はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「押収品の写しと原札の一部を、調査協力名目で白霧港へ移す。辺境伯家の立会いも付ける」
それで十分だった。
王都へ居場所を作るより、北へ持ち帰るものを増やすほうが、今のわたしにはずっと大事だ。
退出の前、廊下でセシリアに呼び止められた。
以前より少しだけやつれた顔で、両手に小さな布包みを抱えている。
「お姉さま」
その呼び方に、前ほど芝居っぽさはなかった。
「これ……母の部屋の箱から見つかったの。ずっと古い札で、わたしには意味が分からなくて」
受け取って開く。
中にあったのは、真鍮の小札が一枚。
『北方種子庫 鍵番控』
「どうして今」
思わず訊くと、セシリアは唇を噛んだ。
「家のため、って言われれば、わたし、ずっと従ってしまったから。でも、あの日お姉さまを見て……同じままだと駄目だと思ったの」
許すとか許さないとか、そんな綺麗な形ではまだない。
でも少なくとも彼女は、家の空気の外へ半歩だけ出た。
「預かります」
わたしが言うと、セシリアは小さく頷いた。
「今度は、なくさないで」
「……はい」
王都を出る馬車には、来た時より荷が増えていた。
凍結帳の控え、押収した保管図の写し、種子札、そして真鍮の鍵番控。
横にはカイル様がいて、向かいの席に積んだ箱が揺れないよう手を添えている。
「王都は惜しくないか」
馬車が南門を抜けた頃、カイル様が訊いた。
「惜しくありません」
「早いな」
「戻りたくて来たわけではないので」
答えると、カイル様は少しだけ笑った。
「白霧港は?」
「惜しいです。早く戻りたい」
「なら問題ない」
窓の外で、灰色の屋根が少しずつ遠ざかっていく。
この街で失ったものは多い。
でも今のわたしは、それを数え直すために戻るんじゃない。
次の春を腐らせないための札を持って帰る。
膝の上で、真鍮札が小さく鳴った。
白霧港の地下で、まだ開いていない扉がどこかにある。
今度は穀物じゃない。春そのものを残した倉だ。




