038 赤蝋の置き場
ハルフェン伯爵家の第二倉は、春先だというのに相変わらず窓が少なかった。
王都を追い出される日に最後に見た時と同じ石壁、同じ鍵穴。
でも、倉の前へ監察局の封縄が張られた瞬間、そこはもう家の内側ではなくなった。
「ここまでする必要があるのか」
父が低く言う。
以前なら、それだけで使用人の背が縮んだ。
けれど今日は監察官も書記も、荷役係までいる。
誰かひとりの声で閉じる場ではない。
「原本照合のためです、伯爵」
上席監察官が答える。
「ご令嬢の証言が正しいなら、貴家にとっても都合がよいはずだ」
父の口元が硬くなる。
その少し後ろで、セシリアが薄い外套の裾を握っていた。
目が合うと、前よりずっと小さく頭を下げる。
でも、今はその意味を問いただす場ではない。
倉の扉が開く。
鼻を刺すのは、前と同じ腐敗臭……ではなかった。
むしろ、急いで香料と石灰を撒いた匂いが強い。
隠したい場所は、だいたいこうなる。
「まず棚列を見ます」
わたしは中へ踏み込んだ。
「第二倉は北壁側が青蝋、南壁側が予備の雑袋でした」
「以前の話だろう」
父が言う。
「ええ。以前の話です」
わたしは床を指す。
「でも床の削れ方は、最近変えても残ります」
石床には、袋台を引きずった筋が並んでいる。
ただし中央列だけ、擦れが新しすぎた。
その列に積まれているのは赤蝋の袋だ。見た目だけなら整っている。でも袋の口の結び位置が微妙に高い。北辺で使う太い麻紐ではなく、王都の再封用の細紐だからだ。
「この袋、いつ並べ替えました」
わたしが問うと、倉番頭の男が視線を泳がせた。
「再点検の折に……」
「夜間ですか」
「そ、それは」
監察官がすぐに書記へ合図する。
「答えろ」
わたしは南壁の棚板へ手を伸ばした。
板の裏に、青い蝋の欠片がまだ残っている。
保存魔法をかけていた時の封色だ。ここへ本来積まれていたのは、わたしが処理した青蝋袋だった。
でも今その場所にあるのは、赤蝋の粗い袋。
位置だけ借りた別物だ。
「袋だけではありません」
わたしは次に、記録棚の一角を示した。
「ここ、帳簿が一冊抜けています」
埃の四角い跡が、棚板にくっきり残っていた。
他は急いで拭いたのに、そこだけ空白のまま。
長く置かれていた重い帳面を抜いた時にしかできない痕だ。
ドロワがすぐに口を挟む。
「帳簿の移送など、監察上よくある」
「なら移送札があるはずです」
「後で出るだろう」
「後で出る札は、だいたい後で書きます」
その時、倉番頭が耐えきれない顔で口を開いた。
「夜でした」
倉の中に、その声だけが妙に大きく響く。
「ドロワ殿の許可札で開けました。伯爵様の印もあった。青蝋の袋を外へ出して、赤蝋の袋を入れろと……」
父が振り返る。
「黙れ」
「黙るな」
上席監察官が鋭く遮った。
さらに奥、帳簿棚の下段を調べていた書記が、小さな木箱を持ち上げた。
封は切れているが、側面に薄い焼印がある。
『耐寒種 北送控』
思わず視線が止まる。
穀物帳だけではない。北送りの種子記録まで、ここに混じっていた。
「これも移送札がありません」
書記が言う。
「伯爵、説明を」
父は初めて、答えを探す顔をした。
家名でも怒声でも埋まらない空白が、棚板と床と袋口のあちこちに出ている。
その横で、セシリアが震える声を落とした。
「……その夜、鍵を持って行ったのは、わたしです」
倉の空気が一気に重くなる。
けれど彼女は、視線を床へ落としたまま続けた。
「お父さまが、監察局の方が確認するだけだと……家のためだと、おっしゃって」
それは告白というより、ようやく飲み込めなくなったものが出た音だった。
わたしは何も言わず、耐寒種の木箱を見た。
王都の倉で、北送りの種子控えが消えかけている。
その事実だけで、次に見るべき棚がもうひとつ増えた。




