032 海側支庫の古い杭
翌朝の干潮に合わせて、わたしたちは海側の崖下へ回った。
大倉の薄板を革筒へ入れ、先頭を歩くのはヨナスさんだ。冬場に使わなくなった細い足場道を、杖で雪を崩しながら確かめていく。
その少し後ろをカイル様と兵士が続き、ニコは黒札の束と小鈴を抱えて跳ねるみたいに歩く。
わたしは潮で濡れないよう裾を持ち上げながら、何度も薄板と崖の形を見比べた。
「本当に道があるんですね」
「昔はあったさ」
ヨナスさんが振り返らずに言う。
「海が荒れる年だけ使う、逃がし道みたいなもんだ。ただ、わしが若い頃にはもう半分潰れてた」
崖を回り込んだ先に、小さな入り江があった。
主桟橋からは見えない陰だ。海は静かだけれど、岸には古い杭の頭がいくつも埋もれている。木ではなく、石に金具を打ち込んだ頑丈な杭だ。
「……これ」
思わず足を止める。
「薄板の印と同じです」
入り江の奥、崖へ食い込むように石小屋があった。
入口は半分雪と砂利で埋もれているけれど、扉の上の金属板はまだ読める。
『海側支庫』
「支庫だった」
ニコが目を丸くする。
「ほんとにあった」
「しかも、ただの避難小屋じゃありません」
扉へ手を当て、保存魔法を薄く流す。
錆びた金具が小さく鳴って、埋もれていた扉が内側へ開いた。
中は思ったより広い。壁際に並んでいたのは、太い綱、鐘、灯籠の骨組み、板橋用の短い踏み板、それから鉄の爪がついた靴具だった。
「滑り止めか」
カイル様が一つ拾い上げる。
「氷の上を渡る時のものみたいです」
奥には、細長い金属板がもう一枚あった。
砂を払って文字を追う。
『港口閉鎖時、湾内氷橋を開く』
『第一杭より第五杭まで、鐘一打ごとに渡る』
思わず、息が止まる。
「氷橋」
声に出すと、その言葉が小屋の中でやけにしっくり響いた。
主桟橋の外海が荒れる時、この入り江の内側を渡る道があったのだ。
海の上へ橋を架けるというより、湾内に張った目印と杭を使って、凍った水面の安全な筋を決める仕組みらしい。
支庫の壁際には、古い炭筆の線も残っていた。
入り江の形を簡単に描き、凍りやすい筋と薄く割れる場所を分けてある。
昔の誰かが、冬ごとに確かめて書き足していたのだと思う。
備えというより、確かめ続けた記録だ。
「ここから上の崖道へ抜けられれば」
わたしは外へ出て、入り江の対岸を見る。
「船が危ない夜でも、人と小荷物は渡せます」
「北の集落へ繋がる裏道にも乗れる」
カイル様が言った。
「主桟橋を噛まれても、補給が死なない」
それが大きい。
白霧港は港だ。でも、港だけで生きているわけじゃない。
診療所、共同炊事場、崖向こうの集落、北森。誰かひとつ止まると、全部が薄くなる。
ニコが支庫の奥で別の札束を見つけた。
黒ずんだ木札だが、裏へ古代文字と今より少し古い共通語が両方刻まれている。
『鐘番』
『綱番』
『橋番』
「役割札まである」
「皆が迷わず立つためですね」
わたしは頷く。
「昔の白霧港も、たぶん同じことをしていました」
「海が閉じた夜に、怒鳴るだけじゃ足りなかったんだろう」
ヨナスさんが支庫の天井を見上げる。
「だから札と鐘を残した」
支庫の外へ出ると、入り江の端に大きな波紋が広がった。
灰色の背が一瞬だけ見えて、すぐに沈む。
主桟橋へ来ていたものと同じだ。
「こっちにもいる」
ニコが小声になる。
「いるなら、なお都合がいいです」
わたしは言った。
「ここへ来る理由があるなら、それも使えます」
海獣はこの入り江を通っている。
なら、主桟橋から匂いを切って、こちらへまとめられる可能性がある。
危険を消せなくても、通る場所をずらせるなら充分仕事になる。
わたしは支庫の入口へ、新しい札をひとつ掛けた。
『海側支庫 調査開始』
札ひとつで遺跡が仕事場になるわけではない。
でも、名前を戻すと動かし方が見える。
「今日のうちに綱と鐘を持ち帰るか?」
ヨナスさんが訊く。
「半分だけ」
わたしは支庫の中を見回した。
「残りはここで使います。主桟橋へ置かない魚箱も、いずれここへ回します」
「海獣の鼻先に?」
「鼻先だからです」
カイル様がそこで、わずかに口元を上げた。
「お前の『だからです』は、だいたい面倒の始まりだな」
「今回は面倒を主桟橋からどけるための面倒です」
潮が満ち始める前に、わたしたちは支庫の古い鐘をひとつ持ち帰った。
重い。けれど音は澄んでいる。
その音なら、吹雪でも夜でも、人にだけちゃんと届きそうだった。
白霧港の地下に倉庫が眠っていたように、海の脇にも備えが眠っていた。
倉庫だけでは冬は越せない。
道まで残しておくから、越せるのだ。




