033 魚箱で海を逸らす
海側支庫を見つけた次の日、白霧港の朝はいつもより魚臭かった。
わざとだ。
主桟橋で腹を抜くのは禁止したまま、傷物の鰊と端身だけを黒札で集める。売り物にならないぶんを樽へ入れ、蓋の内側にだけ薄く保存魔法をかけた。傷みすぎず、匂いだけはしっかり残るくらいに。
「人間相手なら怒られる調整ですね」
ニナが鼻をつまむ。
「人間相手じゃないので」
「それもどうなんだろう」
魚箱は三つ。
一つ目は海側支庫の前。
二つ目は入り江の奥。
三つ目はもっと北の岩棚の陰。
匂いを一本の線にして、主桟橋から切り離す。
同時に、主桟橋では別の線を徹底した。
『腹抜きは奥』
『血水は黒樽へ』
『待機箱は三刻まで』
黒樽へ溜めた血水は、その日のうちに蓋をして支庫側へ回す。桟橋へ「待たせる匂い」を残さない。それだけで、足元の空気がずいぶん違った。
「ほんとに来るかな」
ニコが古い鐘の紐を握りながら、入り江を見つめる。
「来たら一打。主桟橋停止」
「うん」
「二打なら、主桟橋再開です」
「分かった」
昼前、最初の小舟が港口へ見えた時だった。
海面へ灰色の背がひとつ浮く。
前日より近い。でも、そのまま主桟橋へは来ない。風下へ鼻先を向け、ゆっくりと入り江のほうへ曲がっていく。
「いった」
ニコが息を呑む。
「まだ。鐘は一打だけ」
こん、と澄んだ音が鳴る。
主桟橋の人たちがすぐ動きを止め、綱だけを握って様子を見る。海獣は波を割りながら入り江へ進み、最初の魚箱のところで一度大きく水を叩いた。
その飛沫の大きさで、わたしも少しだけ背筋が冷えた。
討てと言われたら困る相手だ。
「あれ、かなり大きいですね」
「討つつもりはない」
カイル様が低く言う。
「主桟橋へ来なければいい」
「同感です」
海獣は一つ目の箱を噛み砕き、さらに奥の匂いを追った。
入り江の奥で二つ目の樽が割れ、水面へ赤い筋がひろがる。灰色の背はそのまま北の岩棚のほうへ消えていった。
「二打!」
わたしが言うと、ニコがすぐ鐘を鳴らす。
主桟橋が再開した。
止まっていた漁師が綱を引き、商隊の箱車が前へ進み、ヨナスさんが新しい黒樽へ蓋を打つ。たった二打で流れが戻る。
それが大きかった。
しかも今度は、止まっているあいだの人の顔が前より落ち着いていた。
何を待っているのか、どの音で再開するのか、皆が知っているからだ。
台所番の女たちは赤札荷の箱数を数え直し、漁師は綱を手繰ったまま次の合図を待つ。商隊の御者まで、文句より先に鈴のほうを見ていた。
「主桟橋、噛まれてない」
ニコが目を丸くする。
「今日は、ですね」
わたしは答えた。
「でも理由が分かれば、明日も寄せにくくできます」
午後、漁師のひとりがぽつりと言った。
「海獣って、船を襲ってるんじゃなくて、腐りかけを追ってるのか」
「血と、腹と、待たされた匂いです」
わたしは黒札の樽を示す。
「前より港が動いて、魚も増えて、でも税札のせいで少しずつ待機が増えていました」
つまり海獣は、急に悪くなったわけではない。
白霧港の流れが変わったから、覚えただけだ。
「覚えられたなら、覚え直させればいい」
カイル様が言う。
「主桟橋へ餌はないと」
「はい」
夕方には、入り江の前へ新しい板も立てた。
『海側支庫 黒札荷以外進入禁止』
『鐘一打 主桟橋停止』
『鐘二打 主桟橋再開』
役割が増えるたび、港は少しずつ強くなる。
誰かひとりの勘ではなく、皆が同じ合図で動けるからだ。
その日の最後の小舟が着いた時、主桟橋の杭は無傷のままだった。
たった一日でも、それは港の空気を変える。
海獣が出たから止めるしかない、ではなく、出ても回し方があると思えるからだ。
ただ、いいことばかりでもない。
日が沈むころ、北の空がまた白く重くなった。春の雪にしては厚い雲だ。
見張り台から降りてきた兵士が、嫌そうな顔で言う。
「夜から吹き返す。気温も落ちるらしい」
海が荒れて、入り江が凍るなら、海獣を逸らす線だけでは足りない。
今度は、止まった時に渡る線が要る。
わたしは海側支庫から持ち帰った役割札を机へ並べた。
『鐘番』
『綱番』
『橋番』
最後の一枚を指で弾く。
「次は、橋番の番です」
主桟橋を守れたのは大きい。
でも白霧港が本当に強くなるのは、ひとつ止まっても別の道が生きている時だ。




