031 桟橋を噛む影
凍結帳の第一便を送り出した翌朝、桟橋へ先に届いたのは悲鳴だった。
「杭がやられた!」
見張りの声で外へ飛び出すと、朝靄の中で漁師たちが一本の係留杭を囲んでいた。太い木の半ばへ、斜めに深い傷が三本入っている。刃物ではない。噛み砕こうとして失敗したみたいな痕だった。
足元には、千切れた網と鱗が散っている。
沖から戻った小舟の男が、蒼い顔で言った。
「灰色の背が出た。網ごと引かれて、杭へぶつかったんだ」
「海獣か」
カイル様が短く問う。
「たぶん。ここ数年は沖でしか見なかったのに、今朝は港口まで入ってきた」
春の交易が立ち上がったばかりの桟橋で、その言葉はかなり重い。
船が怖がって寄らなくなれば、白霧港はまた細る。しかも今は春商隊も漁船も動き始めた時期だ。止めるには悪すぎる。
わたしは傷の縁へしゃがみ込んだ。木屑に混じって、赤黒い魚の身がこびりついている。
「ここ、昨日の掃除は?」
「やったぞ」
ヨナスさんが眉を寄せる。
「ただ、再査定のせいで待たせた魚箱が二つ、朝まで脇へ残った」
そこだった。
この数日、税札と照合で荷の流れが少しだけ遅い。少しだけ遅いと、魚の腹や血の匂いが桟橋へ残る。冬の白霧港なら埋もれていたはずの匂いが、春のぬるみでは目立つ。
「海獣は、船じゃなく匂いを追っています」
わたしが言うと、ニコが傷ついた杭を見上げた。
「じゃあ、桟橋が悪いのか」
「桟橋そのものじゃありません。桟橋へ匂いを寝かせたのが悪いんです」
カイル様が港口のほうへ目を向ける。
「閉じるか」
「全部は閉じられません」
わたしはすぐに首を振った。
「でも、血の匂いが残る流れは切れます。魚の腹、傷物、売れない端身、全部まとめて主桟橋から外してください」
「どこへ」
「まだ決めます。昨日までの帳面だと、海側へ伸びる古い印がひとつあります」
大倉で見つけた薄板の線だ。
港の外れ、海側へ伸びる細い線。避難小屋か支庫か分からないままだったけれど、今なら調べる理由がはっきりしている。
「ニコ、黒札を増やします」
「黒札?」
「血と端身。主桟橋へ置かないものの札です」
「うん!」
「ヨナスさん、魚を捌く場所を今日から一段奥へずらせますか」
「空き地なら作れる」
「ニナ、診療所の裏口に海風が回ると困りますか」
「困る。薬草が全部魚になる」
「では風下からも外します」
言葉にすると、やることは意外と多くない。
匂いのあるものを主桟橋へ寝かせない。待機時間を減らす。残るなら、残る場所を別に作る。
前世でも、生鮮の現場はそれだけで事故が減った。違うのは、今は相手が荷虫じゃなく海獣だということくらいだ。
昼までに、桟橋の脇へ新しい板を立てた。
『主桟橋 腹抜き禁止』
『黒札荷 海側仮置き』
「すごい字面だな」
ヨナスさんがぼそりと言う。
「今日ほしいのは、格好よさより通じやすさです」
それから、鈴をひとつ桟橋へ掛けた。
春商隊の女商人からもらった、あの小さな予備鈴だ。
「何に使う」
カイル様が訊く。
「海獣が出たら鳴らします。主桟橋停止の合図です」
「札と鈴か」
「皆が一度で分かるものが必要なので」
午後、二艘目の小舟が入る時、鈴は本当に鳴った。
港口の黒い水面へ、ぬらりと灰色の背がひとつ浮いたのだ。
大きい。でも、一直線には来ない。匂いを探すみたいに旋回している。
「いま! 黒札荷を動かして!」
怒鳴ると同時に、人が散る。
魚箱は主桟橋から外へ。赤札荷は倉へ。緑札荷は診療所へ。ニコが鈴を鳴らし、漁師が綱を引き、ヨナスさんが空いた樽へ蓋を打つ。
海獣は桟橋の杭へ半歩寄ったあと、風向きが変わるとすぐに向きを変えた。
「やっぱりだ」
わたしは息を吐く。
「あれは、入り口じゃなく匂いを追っています」
主桟橋を噛んでいるように見えて、本当に狙われているのは、そこで雑に待たされたものだ。
なら対処の仕方はある。
夕方、薄板の海側の線をもう一度机へ広げた。
線の先には、小さな杭の印が並んでいる。
「明日、ここを見に行きます」
わたしが言うと、カイル様が頷いた。
「海獣より先に、匂いの逃がし先を作るわけだな」
「はい。主桟橋を餌場にしないために」
外では、潮が引く音の向こうで、遠く小さく鈴が鳴った。
春を呼ぶ鈴だと思っていたけれど、今日からは守りの合図でもある。
白霧港は、紙だけ守ればいい段階をもう過ぎていた。
次に守るのは、海へ開いたままの入り口そのものだ。




