002 白霧港の飢え
白霧港に着いたのは、王都を出てから六日目の夕方だった。
港町というから、もう少し活気のある場所を想像していた。
けれど実際に目の前にあったのは、灰色の海と、雪に洗われて色を失った家並み、それから、風に耐えるようにうずくまった人たちの背中だった。
桟橋の先に立つ男が、わたしを迎えに来ていた。
濃紺の外套を着た長身の男。雪を払う仕草ひとつまで無駄がなく、冷えた鋼みたいな目をしている。
「カイル・ノルトフェルトだ。お前が、王都から送られた補給管理官か」
「リーゼ・ハルフェンです。よろしくお願いします」
「挨拶はあとでいい。いま港は余裕がない」
ぴしゃりと言い切られた。
愛想はない。でも、その言葉の奥に「余裕がない」が本当にあるのが分かる声だった。
馬車から降りた瞬間、頬を切るような風が吹く。
寒い。王都の冬とは比べものにならない。指先がすぐに痺れた。
「倉庫へ案内する」
「住居ではなく?」
「まず見たほうが早い」
それはそうか、と素直に頷いた。
現場優先の人らしい。嫌いじゃない。
港の中央倉庫は、外から見ても分かるくらい管理が乱れていた。
扉の蝶番が歪み、積まれた木箱の高さはばらばら。荷札は濡れ、通路にまで袋がはみ出している。これでは出し入れのたびに崩れる。
中へ入ると、さらにひどかった。
冷えた空気の中に、酸味と油の傷んだ臭いが混ざっている。
乾物の山、塩漬け肉の樽、薬草の束、薪束、何がどこにあるのか一目で把握できない。
「これは……」
「王都から届く物資は予定より少ない。来ても品目がずれる。倉庫番は二人辞めた。雪で荷運びもままならん」
説明の途中で、倉庫の隅から小さな物音がした。
振り向くと、痩せた子どもが木箱の影にしゃがみ込み、固くなった黒パンを抱えている。
十歳くらいの男の子だ。目が合った瞬間、ぱっと逃げようとした。
「待って」
わたしが呼び止めるより早く、カイルが一歩前に出た。
子どもはびくりと震える。
「盗みか」
「ち、違う……落ちてたやつだ」
落ちていたのは本当だろう。床の隅に、濡れて固まったパン屑が散っている。
つまり、これを拾って食べようとしていたのだ。
「名前は?」
「……ニコ」
「診療所へ行ったか」
「今日は、スープ配る日じゃない」
言葉がつかえているのは寒さだけじゃない。
空腹で、警戒で、声を出す余裕がないのだ。
わたしはしゃがみこみ、ニコの手からパンをそっと受け取った。
表面は固い。でも中央部は妙に湿っていて、においが危ない。
「これは食べないほうがいい」
「でも」
「お腹を壊す。いまのお腹でそれをやると、本当に危ないから」
ニコはじっとわたしを見た。
大人の言葉を疑う目だった。
当然だ。食べるなと言うだけの大人は、だいたい代わりをくれない。
「……代わりを探す」
「探す?」
「倉庫にある物資を見せてください。全部とは言いません。まず、食料だけ」
カイルが眉をひそめた。
「着いたばかりのお前に何が分かる」
「分かることもあります。少なくとも、いまの積み方では、まだ助かる物まで駄目にします」
自分でも少し強い口調だったと思う。
でも、言わずにいられなかった。
この倉庫は、飢えの現場であると同時に、改善余地の塊でもある。
「ひと晩ください」
「ひと晩?」
「食料を仕分けます。食べられるもの、すぐ食べるもの、保存し直せるもの、捨てるものに分ける。明日の朝までに、少なくとも今よりは状況を見えるようにします」
「人手はないぞ」
「一人で始めます」
カイルはしばらく黙っていた。
雪が扉を叩く音だけが、倉庫の中に響く。
「……失敗したら」
「責任は取ります」
「王都の人間は簡単にそう言う」
「王都で責任を押しつけられて来た人間なので、少しは本気です」
言ってから、しまった、と思った。
初対面の相手に皮肉が過ぎたかもしれない。
けれどカイルは怒らず、わずかに肩の力を抜いた。
「いいだろう。ひと晩だ。ヨナスを呼ぶ」
奥から、背の曲がった老人が現れた。
羊毛帽を深く被った老倉庫番は、わたしを見るなり、目を丸くした。
「嬢ちゃんが、新しい管理官か」
「リーゼです。よろしくお願いします」
「よろしくされるほど、もう立派な倉庫じゃねえがなあ」
嘆きつつも、その声にはまだ倉庫への愛着が残っている。
よかった。完全に終わった現場じゃない。
わたしは外套を脱いで腕まくりした。
冷える。けれど、体は不思議と軽かった。
「ニコ」
「……なに」
「食べ物がほしいなら、手伝って」
彼は目を見開いた。
「重いものは持たなくていい。濡れた袋と乾いた袋を分けるだけでいいから」
「手伝ったら、食べてもいいのか」
「助かるものが見つかったらね。見つけるために働くの」
ニコは少し迷って、それから小さく頷いた。
ひと晩で倉庫を立て直すことはできない。
でも、ひと晩あれば、死にかけの現場の息を繋ぐことはできる。
わたしは木箱の山へ踏み込み、いちばん上の荷札をめくった。
にじんだ文字。雑な積み方。順番を無視した搬入記録。
見れば見るほど、前世の胃が痛くなる。
けれど同時に、頭は冴えた。
まず通路を確保。濡れたものを分離。塩蔵品は樽ごと点検。乾物は床から上げる。薬草は別室へ。
「ヨナスさん、空いている部屋は?」
「隣の小倉庫が半分空だ」
「そこを乾燥品に使います。ニコ、ランタン持てる?」
「うん」
「カイル様」
「なんだ」
「明日の朝、食べられるものを食卓に戻します。だからそれまで、誰にもこの倉庫を荒らさせないでください」
カイルは、わたしをじっと見た。
試すような、測るような目だ。
「できるのか」
「やります」
その答えに、彼はほんのわずかだけ頷いた。
「では見せてもらおう。王都の令嬢の、倉庫仕事を」




