001 腐った冬備蓄の罪
「リーゼ・ハルフェン。お前を、北辺白霧港への無期限転任とする」
父の声は、いつものように重々しく、そして少しだけ安心しているようにも聞こえた。
わたしは伯爵邸の応接間の真ん中でひざまずいたまま、目の前に並ぶ三人の顔を順に見上げた。ハルフェン伯爵である父ラウル。異母妹のセシリア。王都監査局の役人であるドロワ。
そして足元には、封を破られた帳簿と、倉庫から回収されたという黒ずんだ麦袋が置かれている。
「冬備蓄第二倉の穀物は、お前の保存魔法で管理されていた。にもかかわらず、これだけの腐敗が出た。説明はあるか」
ありますよ。むしろ、ありすぎる。
けれど口を開くより先に、セシリアが細い指で口元を押さえ、震える声を落とした。
「お姉さま、最近ずっとお疲れでしたもの……。無理をして、確認を怠ってしまったのかもしれません」
「セシリア」
「でも、お姉さまを責めたいわけではないのです。ただ、このままだと、困る方がたくさん……」
泣きそうな声。いかにも人のためを思っていますという表情。
この場でいちばん助かっているのが誰かなんて、考えるまでもない。
足元の麦袋を見た瞬間、鼻につんと酸っぱい臭いが刺さった。
腐敗臭。
けれど、それと同時に、頭の奥で別の記憶が跳ねた。
冷気の強い倉庫。ハンディ端末の電子音。パレット番号。入庫時間。ロット管理。棚番。搬出指示。
蛍光灯の下で段ボールを数えながら、「雑に積んだら在庫も現場も死ぬんだよ」とぼやいていた、前世のわたし。
そこで、ようやくわたしは理解した。
わたしは前世で、食品物流会社の在庫管理をしていた。
そして今世では、保存魔法しか使えない伯爵令嬢リーゼ・ハルフェンだ。
……最悪の思い出し方である。
「説明はあります」
顔を上げると、父の眉がぴくりと動いた。
わたしが反論するとは思っていなかったのだろう。
「第二倉でわたしが最後に保存処理をかけたのは、十五日前です。対象は八十六袋、封印は青蝋。帳簿にも残っています。ですが、ここにある麦袋は封が赤蝋に変わっている。袋布の織り目も違う。つまり、倉庫の中身は途中ですり替えられています」
監査役のドロワが鼻で笑った。
「見苦しい言い逃れですな。袋の色だけで責任逃れですか」
「色だけではありません。保存魔法をかけた穀物なら、腐る前に乾き方が変わります。この袋は湿気を吸ってから放置された腐り方です。倉庫の管理扉も、わたしの許可印なしで開いています」
本当なら、現場を見れば一発だ。
でも、この場にいる人たちは、見て分かることより先に、わたしを切ると決めている。
父はゆっくりと首を振った。
「監査局の調べでは、責任者はお前だ」
「責任者にしたい、でしょう」
「リーゼ」
低い声。黙れ、という合図。
昔からそうだった。家にとって都合のいい答え以外、わたしの言葉は最初から存在しないものとして扱われる。
「本来なら蟄居では済まん。だが、白霧港の補給管理が空いている。そこで働け。家の名にこれ以上泥を塗るな」
補給管理。きれいな言い方だ。
実際は、雪に閉ざされた北の果てにある不人気赴任先。王都で失敗した人間や、消したい人間が回される場所だと知っている。
セシリアが、はっと息を呑んだ。
「お父さま、そこまでなさらなくても……」
「セシリア、お前は優しすぎる。家を守るには、責任を明らかにせねばならん」
その優しい妹は、わたしと目が合った瞬間、ほんの少しだけ視線を逸らした。
罪悪感があるのか、ないのか。
たぶん、どちらでもない。ただ流れに乗っただけだ。
だったら、わたしも流れを変えればいい。
白霧港。
前世の知識が、頭の中でやけに冷静に動き出していた。
保存。補給。倉庫。雪に閉ざされた港。
それ、わたし向きでは?
王都では、保存魔法は地味で役に立たないと笑われた。
でも、冬に道が閉ざされる土地で、物を腐らせない力が本当に役立たないわけがない。
むしろ今まで、なんで放っていたんだ。
「分かりました」
応接間の空気が止まった。
父だけでなく、セシリアまで驚いた顔をする。
「白霧港へ行きます」
「……素直だな」
「ええ。王都でわたしにできることは、もうなさそうですから」
最後のひと言だけ、少し棘を混ぜた。
父は気づかないふりをしたし、監査役は露骨に安堵した。
それでいい。
ここで無実を叫んでも、帳簿は消され、袋は燃やされ、わたしだけがうるさい娘として残る。
でも現場なら違う。現物がある。流れがある。保管の記録がある。
腐ったのが穀物だけじゃないなら、いずれ綻びは出る。
その日のうちに荷物をまとめろと言われ、わたしの私物は旅行鞄ひとつ分しか許されなかった。
廊下ですれ違った使用人たちは、気まずそうに頭を下げるだけで、誰も何も言わない。
見送りに来たのは、幼いころに文字を教えてくれた老女中だけだった。
「お嬢さま……お体に気をつけて」
「ありがとう、マルタ。向こうは寒いでしょうね」
「寒いだけなら、まだ……」
それ以上を彼女は言わなかった。
言えないのだろう。白霧港の噂は、王都でもいい話がない。
馬車が動き出す。
薄曇りの王都は、春を待つにはまだ鈍色で、けれど北へ向かう街道はそれよりなお暗かった。
膝の上に置いた帳簿の写しを、指先でなぞる。
出発前にこっそり抜き取ってきたものだ。第二倉の入出庫記録。ところどころ数字が合わない。雑だ。雑すぎる。これなら、現場を見ればどこで抜いたか分かる。
前世のわたしなら、こんな台帳を出された時点で担当者に怒鳴っている。
今世のわたしは、怒鳴るかわりに追放された。
理不尽にもほどがある。
でも、理不尽なのは向こうの都合であって、わたしの能力の価値まで決めるものじゃない。
「白霧港、か……」
小さくつぶやくと、馬車の窓に映ったわたしの顔は、自分でも驚くほど生きた目をしていた。
追い出されたのではない。
現場へ移されたのだ。
もしあの港が本当に死にかけているなら。
そしてそこに倉庫があり、冬があり、物資の流れがあるのなら。
わたしはきっと、やれる。




