016 崖向こうの熱
台所番の当番表が壁に馴染みはじめた頃、診療所の戸は、朝から何度も開いたり閉まったりしていた。
炊事場の鍋が落ち着いたぶん、今度は別の忙しさが目につく。
咳。熱。赤く荒れた喉。雪道を歩いた足先のしびれ。
冬の終わりが遠い土地では、食べ物が足りても、それだけでは越えられない日がある。
「昨日より増えてる」
薬草束を抱えたまま、ニナが低く言った。
「港の中だけじゃない。崖向こうの小集落からも人が来てる」
診療台の上には、乾かした熱さまし草の束が三つ。喉葉の袋が半分。煎じ薬に混ぜる根の箱は、底の木目が見え始めていた。
食料の不足なら、今の白霧港は前より戦える。
でも薬草は違う。採る場所も時期も限られていて、傷みより先に効き目が落ちる。
診療台の脇では、漁師の若い妻が、小さな布包みを胸元で握っていた。
中には今朝の煎じ薬が入っているらしい。
その隣では、崖向こうから来た老人が、雪で濡れた外套のまま順番を待っている。
同じ「熱」でも、夜に飲ませる量も、食べられるものも、家まで戻る距離も違う。
ひとまとめにしていたら、どこかで誰かが取りこぼれる。
「春箱の予備は?」
わたしが尋ねると、ニナは首を振った。
「診療所の分で埋まる。外へ回すぶんがない」
外へ。
その言葉で、十五話の終わりに見えた穴が、はっきり輪郭を持った。
昼、詰所へ戻って台帳を開く。
赤札、白札、緑札。そのどれにも、診療所の薬草は綺麗に収まりきらない。
食べ物と違って、量だけでなく用途が細かい。熱、喉、咳、傷、衰弱。誰に何日分を渡したかまで追わないと、足りなくなる場所がすぐ見えなくなる。
「顔色がよくないな」
机の向かいに立ったカイル様が言った。
「数字の顔色が悪いんです」
「それは大体、現場も悪い」
わたしは台帳を彼へ向けた。
「食卓は繋がり始めました。でも、冬の熱が増えています。診療所の薬草が足りません」
「港の外か」
「はい。崖向こうの集落へ粥は持っていけても、薬が切れます」
カイル様は沈黙したまま紙を追い、やがて問う。
「必要なのは採取か、配分の見直しか」
「両方です。ただ、その前に流れを分けたいです」
「どう分ける」
「診療所向けの札を独立させます。誰のための、何日分の、どの症状向けか。そこまで見えないと、次に採るべき薬草も決められません」
言いながら、大倉で見た古い薄板を思い出していた。
北辺支庫の印。外へ伸びる保管の痕跡。
今すぐ支庫を開く話ではない。けれど古代王国も、薬を港の中だけで回していたはずがない。
なら、わたしたちも同じだ。港の外へ持ち出す前提で組み直さなくてはいけない。
記録補助棚で見つけた薄板には、白霧港の印の横へ、小さな青い刻みが三つあった。
魚や穀物の棚番号とは別の印だ。
あの時は意味が分からなかったけれど、今なら少しだけ想像できる。
薬のように少量で、順番が細かくて、切れると困るもの。
古代の人間だって、たぶん同じことで頭を抱えたのだ。
午後、診療所へ運んだ木箱を前にして、わたしは新しい札を切った。
白でも緑でもない、少し濃い青。
「青札?」
ニコが目を丸くする。
「診療所用です。食べ物より順番が細かいものに使います」
「また札が増えた」
「嬉しそうですね」
「だって、ちゃんと難しい仕事っぽい」
その基準はよく分からない。
でも、助かる。
わたしは青札へ、炭筆で大きく書いた。
『熱』
『喉』
『咳』
『傷』
『衰弱』
さらに下へ、小さく日付と人数を書く欄を足す。
ニナが横から覗き込み、息を吐いた。
「これなら、次に何が減るか見えるかもしれない」
「見えれば、先に動けます」
「見えなくて困ってたのよ。診療所って、だいたい目の前の人から先になるから」
分かる。
現場はいつもそうだ。目の前の不足から埋めるしかない。
でも、その場しのぎだけでは次がもっと苦しくなる。
実際、その日のうちに青札は役に立った。
診療所の見習いの子が、喉葉の袋を衰弱向けの箱へ入れかけたのを、札の色でニコが止めたのだ。
「それ、青札の喉だぞ」
「え、でも柔らかいやつの棚の近くに」
「近くても違う」
雑な会話みたいだけれど、こういう一言で防げる取り違えは多い。
名前がついて、場所が決まると、現場の声も迷いにくくなる。
夕方、崖向こうの小集落から来た母親へ、ニナが熱さまし草を包んで渡した。
腕の中の子どもは、熱で赤い額をしている。
わたしは思わず、その包みに青札を添えた。
『熱 二日分 崖向こう』
母親が何度も頭を下げる。
わたしが返せたのは、「明日も診せに来てください」という言葉だけだった。
頭を下げられるたびに思う。欲しいのは感謝ではなく、次も渡せる仕組みだ。
戸口まで見送ったあと、ニナがぽつりと言った。
「採りに行かないと駄目ね」
「はい」
「今朝の霜の感じだと、北崖の熱さまし草が残ってるかもしれない」
「採り時、ですか」
「数日だけ。遅いと雪の下で駄目になる」
「必要な人手を出します」
そう言って診療所へ顔を出したのは、カイル様だった。
たぶん戸口のやり取りを少し聞いていたのだろう。
「今夜のうちに崖道の兵へ話を通しておく。滑る場所も見ておく」
淡々としているのに、話が早い。
頼もしい、と思ったところで、少しだけ悔しくなる。
もう一人で抱えなくていい場所まで来てしまったのだと、こういう時に実感するからだ。
採る量。運ぶ箱。乾かす棚。先に回す相手。
頭の中で、もう次の段取りが並び始める。
鍋の次は、薬だ。
白霧港が冬を越える港になるなら、湯気だけでは足りない。
熱のある額を冷ます一束まで、切らさず繋がなくてはいけなかった。




