012 燻製小屋に火を戻す
共同炊事場の鍋が回り始めた翌朝、わたしはまだ暗いうちから燻製小屋の前に立っていた。
開けた扉の向こうは、煙と塩と魚の匂いでいっぱいだった。
でも整っているかと言えば、まるで逆だ。脂の多い魚と少ない魚が同じ棚に掛けられ、塩を当てた時間もまちまちで、火床の温度まで感覚任せになっている。
これでは職人の勘が良くても、忙しいほど味がぶれる。
「嫌な顔だな」
奥から出てきたバルトが、腕を組んだまま言った。
「言っておくが、燻製は倉庫みたいに札だけで回る仕事じゃねえぞ」
「分かっています。だから見に来ました」
「余計に嫌だな」
わたしは吊るされた魚を一本ずつ見て回った。
腹の厚み、脂のにじみ、塩の入り方。魚にも順番がある。全部を同じ日に燻せば、うまくいくものまで雑になる。
「バルトさん」
「なんだ」
「これ、火が足りないんじゃなくて、待つ場所が足りないんです」
彼の眉がぴくりと動く。
「待つ場所?」
「塩を入れたあと、一晩落ち着かせたい魚。まだ風に当てたい魚。すぐ燻したい魚。それが全部同じ棚にいるから、火床の前で渋滞しています」
「……まあ、そうだが」
「大倉を使いましょう」
そう言うと、バルトは露骨に顔をしかめた。
「あの青く光る古代倉庫へ、燻製前の魚を入れるのか?」
「全部じゃありません。塩を当てて、順番待ちのぶんだけです」
「そんな贅沢ができるか」
「贅沢じゃなくて、火の節約です」
わたしは持ってきた板を壁に立てかけ、炭筆で三列の表を書いた。
『今日塩をする』
『明日燻す』
『明後日出す』
「脂の多い魚は一晩置く。薄い魚は今日の火で回す。燻製小屋を保管場所にしないで、加工する場所に戻します」
「口で言うのは簡単だ」
「だから試します」
その日の午前、港へ揚がった鱈と昨日の鰊を使って、小さく運用を分けた。
塩をしてすぐ火へ入れるもの。大倉の短期保管区画で一度落ち着かせるもの。共同炊事場へ回してほぐし身にするもの。白札と青札と赤札を、ここでも細かく意味づける。
「ニコ、この札は」
「今日燻すのが白の丸、明日が白の線!」
「正解」
「俺、魚に丸とか線とかつける日が来ると思わなかった」
バルトがぼやく。
「でも見間違えません」
「……それはそうだ」
昼には、燻製小屋の中の空気が変わり始めた。
吊るす列が整い、火床の前に余計な箱がなくなる。バルトは最初こそ文句を言いながら手を動かしていたけれど、魚を下ろす頃には無駄口が減っていた。
職人が静かになるのは、たいていうまくいっている時だ。
最初に出来たのは、脂の乗った鰊の薄燻しだった。
表面だけほどよく締まり、身の中にはまだ柔らかさが残っている。包丁を入れると、香りがふわりと立った。
「どうですか」
わたしが訊くと、バルトは一切れ口に入れ、しばらく無言になった。
それから、悔しそうに吐き出す。
「……前よりいい」
「褒め言葉として」
「まだ全部は渡さん」
でも、その目はもう完全に職人のものだった。
新しいやり方が、自分の技を邪魔するのではなく助けると分かった時の顔だ。
夕方には、共同炊事場の前に小さな列ができていた。
今日の鍋に入れるぶん。明日まで寝かせるぶん。遠くへ運べるようしっかり燻すぶん。魚が、やっと用途ごとの顔を持ちはじめる。
「リーゼ」
小屋を出たところで、カイル様に呼ばれた。
「匂いが違うな」
「流れを分けたので、火が仕事だけをするようになりました」
「前は煙に追われていたのに、今日は火を使っている感じがする」
その言い方は、妙に腑に落ちた。
現場が整うと、人は火にも荷物にも使われなくなる。使う側に戻れるのだ。
帰り際、バルトが壁の表を見上げたまま言った。
「明日から、燻し台の横にもう一枚板を増やす」
「献立ですか?」
「違う。仕込み順だ」
「それは助かります」
「勘違いするな。俺が楽をしたいだけだ」
そういうことにしておこうと思った。
実際、現場の人間が自分で板を足すようになった時点で、運用はもう根づき始めている。
白霧港の台所に、またひとつ火が戻った。
次はその火で、何を何日に食べるかまで見えるようにする番だ。




